つかのま。

読書と日々考えたこと

ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡:迷宮』(丘沢静也訳版、生誕90周年記念/田村都志夫訳版)

先日、復刊クラファンをきっかけにエンデの『影の縫製機』を読んだ。
tsukanoma.hatenablog.jp
読んでいたら『鏡のなかの鏡』に通じるものを感じ、久々に読みたくなったので読み返していた。

実は『鏡のなかの鏡』は合計3冊持っている。
丘沢静也訳の岩波現代文庫版・単行本に加えて、エンデ生誕90周年記念版(2019)の田村都志夫訳。
『鏡のなかの鏡』岩波現代文庫版、丘沢静也版、田村都志夫版の写真
今回、二つの訳版を立て続けに読んでみた。そうすると改めて『影の縫製機』のクラファン成功してほしいなという思いが強くなったので、その応援の気持ちも含めてブログに書いておく。
『鏡のなかの鏡』が好きな人は『影の縫製機』も多分好きだし、逆もしかりなので…。

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『鏡のなかの鏡』は、ミヒャエル・エンデの父・エトガー・エンデに捧げられた幻想的な作品。短編連作のようでありつつ、一つひとつの話がイメージやモチーフを歪んだ鏡のように映して緩やかにつながってひとつの大きな「迷宮」を形作っている。

絵と文章の絡み合う有り様は、ビネッテ・シュレーダーとの『影の縫製機』に近しいものがあると思う。エトガーの絵のような、一言では説明ができず、解釈を求めてぐっと覗き込みたくなるような、無性に寂しくなるような世界観が作品全体を貫いている。ちなみにエトガー・エンデ画集も所持していますが、全部合わせて見たことある中でエトガーの一番印象的な絵は鏡〜にも含まれている『ラザロは待っている』かも。

たどり着くことのない楽園、どこでもない場所への郷愁、誰でもないものの夢のはざま。そんなイメージと実験小説的なつくりが好きな人は、きっと『鏡のなかの鏡』が好き。エンデ『はてしない物語』や『モモ』(多分『自由の牢獄』も)に比べるとちょっととっつきにくさがあるかもしれない作品だけども、そこはさすがにエンデなので、個々の”理解”を超えてどんどん読ませるストーリーテリング的な面白さもある。

今回読み返していて、この作品を読むのはまさしく「経験」だなと感じた。よくある「主人公を追体験する」とは違うし、『はてしない物語』の二色刷り・あかがね色装丁のように現実とのリンクを感じるのと近いけどそれともまた少し違う。

『鏡のなかの鏡』を一つ一つのモチーフやイメージをたどりながら読んでいると、章を重ねるごとにイメージが複雑に反射していくようで、まさしく鏡の中の迷宮に迷い込んだような心地になるのだ。前の話が次の話につながっている、というような一方通行的で短いつながりではない。いくつも前の話のイメージが突如として出てきたり、あとになって、あの話のあのイメージはここか、と気づくことがあったり。読んでいるうちに自分こそがその迷宮に囚われているような感覚になってくる。

これはやはり二色刷り・あかがね色装丁の『はてしない物語』の現実とのリンク感とも近いし『はてしない物語』もあれをのめり込むように読むこと自体でファンタージエンを救っている「経験」があるような話なんだけど、それよりももっと直接的というか、取り込まれていくようというか。「体験に圧倒される」と語る作中のホル(ホア)のように、数多の物語のイメージの重積と乱反射に耐えられなくなってくる中で、物語は24章に到達する。

24章は、この迷宮のひとつの「終わり(エンデ)」。22章で放浪をやめた世界旅行者、23章で方向を変えた船乗りと綱渡りの話も象徴的だが、この24章ではまさしく「エンデ」を名乗るパガド(魔術師・手品師)が現れ、「芝居は終わり」「新しい世界を捜すんだ」と言って「ミヒャエル」と名付けられた子供とともに、人の住めない国を旅立ってゆく。そして25章「手に手を取って、二人が道を…」で「郷愁を忘れちゃだめだ」と叫ぶ子供…。このあたりの畳み掛けが一番好き。やがて雨降る教室の人々は黒板から脱出し(26章)、死ぬことのできない独裁者は眠りにつき(28章)、道化は「目覚めることが問題だ」と繰り返す(29章)。そして最後、30章の静かさと寂しさ。読み終わったあとの寂寥感。

読み終わったあとはついもう一周読み返したくなるような構成なのだが、今回は丘沢静也訳(現代文庫)を通しで読んだあと、田村都志夫訳を2周目として読んでみた。そうするとやはり、訳や装丁が違うとまた別の感覚があり、そういった意味でも『影の縫製機』の新装版復刊はぜひ応援したいなぁと思ったのでした。

もともと丘沢訳で何度も何度も読み返している作品なので、丘沢訳に馴染みがある。それもあって読みやすさという点で言うとどちらかというと丘沢訳の方かな…と思うフシがあるんだけど、田村訳でディティールがわかってよかった箇所もあった。(ドイツ語原文は未読です)

例えば10章。「手首に傷を見た」というシーンで、丘沢訳だと「ひっかき傷」と表現されている箇所はなんとなく読み飛ばしてしまっていたけれど、田村訳では「聖痕」だとされていて、あぁなるほど、と思った。エンデが書いてて手首の傷というなら、それは確かに聖痕っぽそう。「ひっかき」という言葉で杭を連想できなかった。8章の「生贄と罪人」(丘沢)と「被害者と被告」(田村)はどうなんだろう、田村のほうが前の流れからすると自然な気はした。

30章で「腹違い」(岡沢)と「種違い」(田村)があったときは、流石に意味がだいぶ違うくない!?とびっくりしてしまった。前後の流れや元になったミノタウロス伝説のことを踏まえると「種違い」が正解のはず。

こういうふうに並べて読むと新たな発見もあって面白かったし、ますますドイツ語の原文が読みたくなった。クラファンの『影の縫製機』は基本はもとの訳のままで、一部だけ改訳があるとのことだけど、なんとドイツ語の原文がついてくるとか。旧版と突き合わせて改訳箇所を眺めてみるのも面白そう。旧版持っている人もクラファン、いかがでしょうか。

生誕90周年版の『鏡のなかの鏡』が出たときもそうだったけど、エンデ没後30年にもなって、エンデ作品の新刊にお金を直接落とせるのがまずありがたい。『影の縫製機』に限らず、エンデの入手しにくくなっている作品類が、岩波現代文庫だったり少年文庫だったり含め、もっと色々気軽に読めるようになるといいなぁとも思います。

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