つかのま。

読書と日々考えたこと

新しい本棚を買った

先月書いた大掃除の日記を「きょうのはてなブログ」で取り上げていただいたようで、一気にたくさんのアクセスをいただいた。ありがたいことです。

もう6月も末だが、今のところきれいな部屋とよい生活習慣を比較的維持できている。おかげで放送大学のオンライン授業課題も巻きで提出できた。そのあたりの話はまた今度。


今日は新しく買った本棚の話。先週日曜に一人でせっせと組み立てた。

ニトリネットで買った、白井産業のセミオーダー本棚、強化棚版。

部屋を片付けする中で、いよいよ本棚の限界を感じていた。片付けてもどうにもならず、アイロン台のうえに本が積まれたままだった。しかも、今後放送大学で学期ごとにテキストを買うから確実にさらに増えていく。

とはいえそれほど広くない賃貸なのでもう本棚を置ける壁面はないし、そもそも大量の本を積み上げることでの床へのダメージも心配なのがネックだった。

しかし、今回の大掃除で座椅子を捨てたことでかなり床が広がっていた。ここになら棚を置けるのでは…?ということで、今回は高さ低めの本棚を間仕切り的に部屋の真ん中に置くことにした。ついでに本棚の上にはカバン類を置けるようにして、床にまたものが広がってしまうのを防いでいる。

最初は裏表両面から出し入れできるタイプの棚で探していたのだが、条件にあうものがなかなかなく。結局普通の強化棚になった。裏面が丸出しなのをどうにかしたい、いいアイディアないかな。

今のところ、本の置き場所が3カ所ある。

  1. 机の上には今期の放送大学テキストなど今すぐ使う・読みかけの本
  2. 部屋の真ん中には放送大学テキストと文庫本中心に、ぱっと取り出す可能性がある本
  3. メインの本棚にはその他全て

こういう使い分けで行こうと思います。

座卓に座ってる状態でさっと手を伸ばして本が取れるようになった。辞書的に使いたい本を置けると便利そう。

新しい本棚もすぐ埋まってしまうかな…と若干感じつつ、ここにどんな本を置こうとか考えるとワクワクする。積み本消化にもつながるといいな。

私の本棚


これは私の本棚の、語学コーナーの一部。
隠れて見えないけど、他にブラジルポルトガル語、韓国語の教本がある。ウクライナ語のニューエクを持ってた気がするんだけど見当たらなかった。

手前にある白水社の文法ハンドブックのうち、ペルシア語とアイスランド語を買ったときの記事はこちら。ヘブライ語は発売当時に買ってた。

このとき、アラビア語も買おうとしてお財布(と本棚)の都合上見送っていたのだが、イスラエルがイランに攻撃を始めた日、この並びを揃えておきたくなって、結局買った。

この並びを揃えることで、「みんな仲良くなればいいのに」とか、そんな事を言うつもりなのではない。

なんというか、これが私なりの、今の情勢に向き合う上でのとっかかりの作り方だと思っている。

各地からの重要なニュースは翻訳されて各メディアで放送される。Xでは現地の人のポストを翻訳して紹介してくれる人もいる。そうでなくても機械翻訳の精度も近頃は上がっている。

そんな今、(独学初級程度の)外国語学習の必要性なんて薄いかもしれないけど、誰かの発した言葉を間に何も挟まずにダイレクトに理解できることには、単純に情報を得る以上の意義があると感じている。

元々大学で聖書ヘブライ語の授業をとってて(不真面目な学生で成果は散々ですが)、その影響もあってイスラエルユダヤ人の歴史・文化にある程度の関心を持ち続けていた。授業は不真面目ながらも一応ヘブライ文字はざっくり読めたり言語的特徴も概要くらいは覚えてる。

でも2023年以降の状況を受けて、自分がアラビア語を全くやったことがない、文字も読めないことの不均衡さへのモヤモヤが大きくなっていた。そもそも勢力の大きい言語だし興味的にもいずれ勉強するつもりではあったんだけど。

そんなこんなのうちにイランとまで全面的に事を構えだして、ペルシア語ハンドブックを買ってちょっと向き合い始めたばっかりだったので、あぁ、と。表す言葉が見つけられない。おまけにこのブログを書いた今日はアメリカがイランを攻撃し始めた。

のんびり言語学習なんてしてて何を呑気な、とも思うようなことももちろんあるけど、どんなに遠回りでもここから始めるのが私としてはしっくりくるから、ヘブライ語アラビア語・ペルシア語を揃えた。

もちろん現在進行系で起きているありとあらゆる暴力と殺戮と破壊は今すぐやめるべきと思っているし、それを理解し表明するのに語学力は問題にならない。やめろと言いながら私は私なりの向き合い方として語学をする。

韓国語学習を始めた

今年の4月から、放送大学で韓国語Ⅰを聴講しはじめた。

現役時代に語学の単位は山程取ったので単位科目として語学を履修する予定はないが、せっかく放送授業が見れるなら…ということで、息抜き的に見ている。他にも「英語で読む大統領演説」「英語で『道』を語る」もみている。これらも面白い科目だがその話はまた今度。

韓国語はこれまで何度か取り組もうとしつつも挫折を繰り返してきた言語の一つ。
韓国語の文法中心入門書みたいなのは一冊持っているんだけど、なかなかどうしてハングルの壁が厚く、片手間でやっていたのもあって全然読めるようにならなかった。文字が読めないので文法でも例文がすんなり読めずに苦戦するなど。

その点Duolingoはハングルを覚えるのに結構役立った。最初はダイヤモンドリーグを目指していたときにささっと経験値稼げる手段として英語→韓国語のハングルコースを延々回していたんだけど、これのおかげでなんとな〜くハングルへの苦手意識が減っていった。バスやモノレールの地名ハングル表記がなんとなく読めると楽しくなってきた。

韓国語はYouTubeなんかで学習動画もたくさん上がっているから、そちらで勉強しようかな…と思った時期もありました。
トリリンガルのトミ」さんのチャンネルは結構体系立てて動画が作られているという印象で、初級の動画は何本か見た。
www.youtube.com
…んだけど、なかなか学習を続けられず。私の場合、語学へのモチベーションは大概「読めるようになりたい」なんだけど、その時点で「韓国語で読みたい」と思うテクストがあまりなかったのも原因かもしれない。強いて言うなら韓国語で書かれたオタクのツイートは読みたかった。

放送大学で今なんとなく動画を見続けられているのは、「1週間に1回分」と決めて少しずつ習慣化できているというのが大きい。あと地味にDuolingoも続けてハングルへの抵抗感を徐々に減らしているのも。

韓国語Ⅰは先生方の雰囲気がなんだか飄々としていて親しみやすく、ついつい動画自体も見たくなってしまう感じ。仕組みの解説もかなりわかりやすく、息抜き感覚でぼんやり眺めているだけでなんとなくわかるようになってくるからすごい。そして合間合間に挟まる休憩コーナーのゆるトーク・韓国探訪がちょっとクスっとできるかんじでおもしろい。

Duolingoでも最近は主に英語→韓国語コースのレッスンを少しずつ進めている。徐々に読める文章や語彙が増えてきて、中国語学習とはまた違った方向での「国語力」の恩恵を感じるようになった。

中国語の場合、当然ながら文字が漢字なので、音や文法がわからなくても字面でざっくり意味が取れてしまう。一方で音は声調があったりする都合かなり違って聞こえて難しい。
韓国語の場合、これが逆の感覚である。字面はハングルなのでまだなかなかすんなりとは読めず、知っている単語でもパッと拾い読みができないレベルなんだけど、耳で聞く分には(漢字語の場合)知らない単語でも結構推測が聞く。語順なんかも日本語と近いので、結構「拾い聞き」で理解できそうな印象を受けている。

やっぱり言語学習はいろんなタイプの言語をかじってみるのが楽しいなぁと改めて感じている。
ゆくゆくはTOPIKもチャレンジする…かも。
「韓国語で読みたいテクスト」は今もまだあまり具体的にはないんだけど、そういえば昔、『ドラゴン・ラージャ』が結構好きだったな、と思い出したりもした。

加藤好郎・ほか(編)『書物の文化史:メディアの変遷と知の枠組み』

タイトル通り、書物に関する文化史を概説する入門教科書的な一冊。図書館から借りてきた本。
主に東洋・日本・オリエント・西洋ごとに説明。近・現代の章もあるが、そちらはかなり駆け足で羅列感があり、惜しい感じ。近現代については別の本を参照した方が良いかも。
教科書的なつくりなだけあって、参考文献リスト・読書ガイドがしっかり載っているのがうれしい。この一冊を足がかりにして、気になるトピックを深めていくのによさそう。

司書課程の影響もあってここ2,3年、活版印刷以前の書記・図書館に興味があり、関連の本を少しずつ読んでいる。この本を手に取ったのもその一環。
特に興味があるのは主にオリエント~中世ヨーロッパあたりの書記や写本作り。
この本はそのあたりのトピックも参考文献付でざっくり解説してくれているので、ここから次に読む本を広げていこうと思う。

ちょっと面白かった一文。

キツネが化けるときに口にくわえるのは、必ず巻子本であって、冊子本でも電子テクストでもない。
(p.53)

確かに…。
単純に冊子体が便利だから巻子本に取って代わった…という程度の印象だったけど、「奥義・秘伝書といえば巻子本」というイメージだとか、引照が重要なキリスト教の聖書写本は冊子体になった一方ユダヤ教のトーラーは巻子体なこととか、「巻子本だからこそ」の神秘性が面白いなと思った。こういう文字・本の魔術・神秘的な要素大好き。

あと、修道院写本の項で軽く紹介されてた映画『薔薇の名前』、気になるので見てみたい。

本文中で紹介されている資料のいくつかはNDLデジコレで読めそうだったので見てみようと思ったら、いまだに本登録申請中のステータスだった。今更申請したんかい、という感じではあるんですが。申請してからそろそろ1ヶ月たつので早く手続きが終わると良いなぁ。

いつもは布団に寝そべって本を読んでしまうんだけど、今回は部屋が綺麗なので、机で椅子に座って読めた。パソコンも開いて気になるところは適宜メモをしながら。かなり集中して読みやすかった。家でなかなか本が読めなかった原因の一つは多分姿勢だ。図書館の閲覧席の絶妙な椅子と机のバランスに感心する今日この頃だったりもする。次机買う機会があればあのバランスをぜひ再現したい。

5月の大掃除、「捨てること」と生活の立て直し

たまたまこのタイトルで日記を書こうとしたら、
今週のお題「最近捨てたもの」
らしいので、なんだかタイムリーだなと思いつつお題記事として書いてみる。


5月、部屋の大掃除をした。
もともと部屋の片付けが苦手で、ほとんど常にゴミ屋敷予備軍みたいな部屋で生活している。机と椅子とアイロン台の上にはものが溢れてて使用不可能だし、ベッドの半分くらいは本が占拠してたりするし、床にはありとあらゆるものが散乱していて、ありとあらゆる引き出しが半開きだったりする。台所もいつ食中毒するかわからんな笑とか言っているが全くもって笑い事ではない。

いつも片付けなきゃなあ掃除しなきゃなあ…。と思いつつ大型連休の時でもついつい後回しにしてしまうけど、今回はなんだか調子がよくて、かなり集中的に片付けられた。今、ものすごく快適です。玄関からベランダまで全くものを避けずに歩けるってこんなに楽なんだ。このブログも片付いた机で椅子に座って書いてる。

片付けるきっかけは部屋のエアコンの不調だった。リモコンがうまくきかなくなっていて、症状からリモコンの故障なのか本体の問題なのか判断がつかず、本格的に夏になる前に一度点検に来て貰うことにした。

人を家に上げるとなると、さすがに部屋を片付けなければならない。これまでも消防点検やらなんやらの度に取り繕っては来たけれど、だいたい「見えないところに全部押し込む」みたいなその場しのぎをしていた。でも、今回はそれをしないようにしようと思っていた。なんでだろう。大型連休で余裕があったというのもあるかもしれないが、4月から放送大学を予定どおりに進められているという自信もあったのかも。もしかしたら大きいのは、座椅子が壊れたことかもしれない。
この間記事にも書いたコレ。
tsukanoma.hatenablog.jp

上の記事でも書いたように、この座椅子には結構思い入れがあった。合わせて書いたT90Chiもそう。思い入れのあるこれらをえいやっと手放したのが本格的にひとつの区切りだったように思う。

思い入れがあるものを捨てるのは本当に大変だった。座椅子は粗大ゴミ回収日当日まで本当に捨てるのか悩んでいたし、T90Chiも手放しがたくて悪あがきしようかどうしようか結構真剣に悩んだ。でも、捨ててみたらどっちも思いのほかあっさりしてて、「処分した方が良い」と分かっていながら手放せなかったころのモヤモヤも一緒に消えていた。

そこからはもうバンバン捨てた。いらない電子機器はリサイクルショップに持って行って多少のお金にし、そのお金でモニターをリサイクルショップで買ったりもした。これで今使っているノートPCのハード面にガタが来ている問題を多少解決できた。大型連休の一週間、毎日何かしらの種類のゴミを捨てた。座椅子を捨てたことで床にスペースができ、そこにものを広げて選別できたので片付けも効率が上がった。未練たらしくとっておいていた公務員試験の問題集も捨てた。

後生大事に持っていたものの大半は、学生時代のアパートから実家に戻ったときに荷造りして、そのまま今のアパートに引っ越してきたものだった。つまり、引っ越しを2回しても捨てられてなかったものたち。超ボロボロの古い充電ケーブルだとか、なんでこんなものまで捨てられなかったんだろう?と思うようなものもあったりした。これらに関しては捨てられなかったと言うより、そこに至るまで片付けの気力を保てない状態が学生時代以来続いていたという感じ。本当に今回は自分でもびっくりするほど気力があった。

明らかにゴミとわかるものは簡単に捨てられるけど、思い入れが多少なりとあるものはやっぱり捨てがたい。今回も、学生時代の大量のレジュメの山を見なかったことにしている。読み返すことは多分無いし、絶対いらない紙も混じってるし、せめて整理整頓するべきなんだけど。他にも旅行のお土産で買ってきたようなちょっとした小物とか。使わないけどディスプレイしたいものたち。

生きていけばいくほど、この調子で捨てられないものが増えていく。でも全部を抱えていけるほど部屋は広くないし、私には随時整理整頓するだけの甲斐性がない。適切に保管されず、グチャグチャにして存在を忘れ去ってしまうくらいなら、それは"保存"ではないし、持っている意味は多分無い。

私は変わることが怖かった。そこにはいろんな要因があるんだろうけど、"今まで"を捨てることのように思えたからでもある。

でも流石にアラサーと呼ばれる年まで生きてきて、抱えきれないモノも、私を置いてけぼりにして変わっていくモノも増えてきた。私がどれだけ抱え込んでいたって、どうしようもなく変わっていくしかないことがある。ここ2,3年、司書課程を始めてからの変化は、なかなか心地よいモノでもあった。そこで少し変わった今だから、ここまで掃除ができたのかもしれない。

色々と捨てよう。全部は捨てなくて良い。座椅子やT90Chiのように、思い入れは記録でも残る。デジタルデータの保存と管理についてはまた別で考える必要があるけれど。


そして、モノを捨てて広くなった部屋で、私は今月かなり理想的なルーチンの生活をしている。元が結構ギリギリだったともいう。
朝起きて、30分以内でベッドから出られるようになった。
片付いた座卓で、発掘したカクノで15分ほど写本をしている。
6時半からは広い床で軽くラジオ体操。
朝食を家で食べている。歯磨きまで出来る。
ある程度の化粧をしてから家を出られるようになった。
英語多読もゆっくりだけど再開した。
昼休みには放送大学のテキストを1章ずつ読んでいる。図書館の本も時々。
食器をため込まなくなった。
毎日髪を洗ってきちっと乾かしている。
放送大学の放送授業ノルマをきちんとこなし、通信指導も期限よりかなりはやく提出した。
週末は楽器の練習を続けられているし、用事が出来て出かける腰も軽くなった。

ただ、結構キツキツの感はあるので、きっちりしすぎないようにしないとな、という自戒はもっている。今日はこの記事を書くのに大変夜更かしをしてしまっているので明日がすでに心配である。

部屋も、いつまでこの状態を保てるかは定かではない。本棚とクローゼットと台所はエアコン点検の後にしようと放置してしまっているし。でも少なくとも約1ヶ月は持っているので、この調子で健やかに過ごしていきたい。

大学図書館の利用者証を手に入れた

またなんだかなんだ期間があいてしまった。書いておきたいなと思うことは色々あったので遡って書くかもしれないし書かないかもしれない。

先週末、放送大学の学生証を更新してきた。そのついでに、琉大図書館の学外利用者証も申請してきた。

去年近大の図書館を覗きに行った時にも痛感していたけど、何か特定の分野を勉強したいと思う時のスタートには大学図書館の書架の間をウロウロするのがいい。ざっくりとどういう分野があるのかを把握したり、自分の漠然とした興味をもう少し絞り込んだりできる。公立図書館でもある程度はできるが、どうしても一分野あたりの蔵書量や深掘りのレベルで限界を感じる。

公立通じて大学図書館本の取り寄せはできるし、放送大学の学生だから当然放送大学の図書館も利用できるわけだが、やはりブラウジング的な本の探し方は遠隔利用より現地に足を運ぶのが手っ取り早いわけで。放送大学図書館のサービスも積極的に使おうと思いつつ、せっかく学習センターが敷地内にあるんだし…ということで気軽に出入りできるようにさせてもらおうと思った次第です。学生・教員のお邪魔にならないように利用させていただきます。

現役(今も"現役"放送大学生ですが…)だった頃、あまり大学図書館を有効活用できなかったこともずっと後悔している。いまだにあの辺の本読んでおけばよかったなぁ…と思い出したりする。詩論とか。せっかく結構な規模の図書館があったのに。授業関連の本もろくに読めなかったので、当然授業外の興味の本にも手を付けられずだった。

その思い残しをそそぐというのもちょっとありつつ、今積極的に図書館を使えるのは、図書館司書課程をやったからだなぁとも思える。それまでももちろん各段階での図書館利用教育は受けてきたけど、司書課程で「そもそも図書館とは…」みたいな話から入ったおかげでより有効に活用できるようになった気がする。あれぐらいがっつりの"図書館とはなんぞや"みたいな話、高校くらいでみんな数時間かけてやってもいいんじゃないかなと思う。

あとは多分ふっきれもある。"司書を目指さない"ことがずっとずっと刺さってる小骨だったので。

結局司書にはならなかった・なれなかったけど、「司書(含む図書館業界の職)にならない/なれないなら図書館学を学ぶ意味はないのでは」という大学受験の頃に迷って、誰にも相談もできないままぼんやり目をそらした要因の思い込みをのりこえ…つつある。正直まだ時々ぐるぐる考えてしまうことはある。別地域や非正規ならまだ道はあるのに、そっちを選んでないのは自分じゃん、とか。でも今、放送大学でマイペースに学んでいるのがすごく性にあってて、「学ぶこと」そのものについても多分ちょっと感覚が良い方向に違ってきているというか戻ってきている。古文の勉強と自分に言い訳して古典文学大系読んでた頃くらいの感覚には。

3wayマットレス座椅子とTransBook T90Chiと大学生の頃

今週、粗大ごみとしてローソファを捨てた。
ニトリのこういうやつ。カウチっぽくなったりマットレスっぽくなったりもする。

1ヶ月前ほどからリクライニングがおかしくなってしまってきちんと止まらなくなってしまっていた。

このソファは大学生の頃に買った。当時から部屋が汚くて、机はもっていたがほぼもので埋まっており、ローテーブルのすきまと座布団で生活していた。結構な確率で座布団に座るのに失敗してベッドの上で生活をしていたこともあり、少しでもマシになればと思って座椅子っぽいのが欲しかった。ニトリのWEBショップでたまたまアウトレットで安く売っていたのを見つけて買ったのを覚えている。

以来、このローソファは生活の中心にあった。相変わらず部屋は汚かったのでソファがもので埋まっていたことも多かったけど。

特に思い出深いのが卒論の提出直前。かなり色々駄目だった頃だったが、カウチ形態にしたこれの上にローテーブルを乗せてパソコンを使うことで、あまりまっすぐになれないときを乗り切っていた。乗り切れていたかは審議。なんだかもう嫌で、現実逃避的にカブトボーグを見てた記憶がある。なんで?なんでだろう…。出来は散々だったけど、それでもいっそ提出しないままドロップアウトしたい衝動を抑えてどうにか卒論を提出できたのはこのソファのおかげ。

今のアパートに引っ越してからはスペース的にカウチ形態にしづらく、そうするとローテーブルとの高さが合わなかったりして、埋まっている確率が高いのも相まってあまり使わなくなっていた。自分の生活習慣的に地べた生活をやめたほうがいいのもわかってきた。何度かこれまでも処分してしまおうかと思っていたが、まだ使えるしと思うとなかなか吹っ切れられずにいた。

今回、リクライニングの不具合をきっかけに粗大ごみとして処分することに。いざ捨てるとなるとどうしても思い出がよぎってしまう。スプリングの有無を念の為確認するために一部切り開かなければならなかったとき結構な覚悟が必要だった。スプリングは入っていなかった。

捨てる日の朝、ガチャガチャといじっていたらなぜかこれまで全然駄目だったリクライニングが比較的しっかり止まった。あれ、もしかして捨てる必要ないんじゃない?とこの期に及んでに考えてしまったが、もうすでに底面にはカッターで不可逆の傷が入っている。それに、リクライニング部分以外にも若干の問題があったし、粗大ごみの収集申込みはもう完了している。未練を振り切るようにしてゴミ捨て場に置いた。

スプリングは入ってないはずだから大丈夫、重さに応じた分の粗大ごみの処理券も貼ったから大丈夫…こういったソファを処分するのは初めてだったのでドキドキそわそわ。そんな気持ちとは裏腹に、収集車の音が聞こえたと思ったらあっという間に持ち去られていた。もう私の部屋にソファはない。


そんな大学時代を一緒に乗り越えたもう一つの相棒も、そろそろ処分する。
ASUS TransBook T90Chi。サブPC兼タブレットとして使っていた。


8.9インチの2in1 Windowsタブレット。当時のメインノートPCはASUSの15インチくらいのものだった。流石に重くて大学に持って行くのは厳しく、かといって大学の共用端末だと自由度が低くてタブレットが欲しかった。色々調べていくうちに安い・小さい・Windowsということでこの製品にたどり着いた。

これは買ってよかった。控えめスペックなのでなんでもできるというわけではないけれど、WEBブラウザとWord、テキストエディタが動けば十分。カバンに雑に投げ込めるサイズ感でどこへでも持っていけた。レポートを書くのはもちろん、Windowsなので色々なアプリが一応動くためMuseScoreで笛の楽譜作業をしたり、Praat入れて音声学の課題をやったり。Dellスタイラスを使えば筆圧感知もできたりして、弱点は(スペックの低さを除くと)付属キーボードにはタッチパッドやその代替機能がついてないことくらい。これがなければもっと引きこもっていたと思う。

とても便利だったのだが、卒論の時期にメインPCを買い替えて15インチ→13インチになり多少軽量化したのと、色々駄目の影響で引きこもりが加速していたのもあって少しずつ出番は減っていっていた。社会人になってからも使う機会は減っていて、今回久々に電源を入れたら最終起動は多分2020年の冬くらいだったみたい。

そろそろWindows10のサポートが終わるのでアップデートを確認してみたら、案の定Windows11はもう厳しかった。なんせメモリは2GBしかないし、OSは32bit版だったりするので。一瞬Linux化して延命しようかとも思ったが、そのために必要な周辺機器を買い揃えるところから始めなければならないのと、付属のキーボードの様子がおかしいので、もう限界かなと諦めることにした。

これまでも古いスマホやPCを処分するのがしのびなくてとっておきがちだったけど、流石にバッテリがヤバそうな古いスマホを発掘するなどしているので、この機会にきちんと処分をしようと思う。

なお、代わりにChromebookを一台買ってみることにした。これについてはまた別の記事で書くかも。この記事もそのChromebookで書いている。

今回、大学生の頃に使っていたこれらのものを捨てるにあたってあの頃のことを色々と思い出していたら、当時なぐり書きしていたブログが残っていたのを見つけた。当時は発散というか衝動というか強迫観念というか、ともかく必死にタイピングしていたのを覚えている。あの頃はなんだか本当に色々駄目だった。今は司書課程やら放送大学やらであの頃の「やり残し」を少しずつ拾っているような感覚がある。少しだけどマシになってきている。

昔のブログは今読み返すとめちゃくちゃ恥ずかしいのだけど、当時必死で書いていた勢いをそのままインターネットの海に流しておきたい気もしたりして。一部の記事はこっちのブログに移植しようかなと思えるものもあるので、どうしていくかはもう少し考えてみる。