つかのま。

読書と日々考えたこと

ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ(9)裁き司 最後の戦い』(コンパクト版)

1巻を読み終えたのが10月頭だから、約2ヶ月かけて読み終えた形になる。年末までかかるペースかと思いきや最後の方は一気読みしてしまった。


改めて、聖書が深く絡んでいる本だったのだなぁと感慨を覚えた。昔読んでた頃には多分ほとんどわかっていなかったと思う。これが(おそらく聖書にあまり馴染みがないほうが多い)日本の小中学生に長らく読まれている作品だというのがすごい。結構な図書館にいまだにある本という印象で。


現役(?)で読んでいた頃より、今はかなり知識は増えてきたほうだと思う。たまたま今年はようやく聖書を手に入れていて、気になる箇所をチラッと参照しながら読むということもできたりする環境だった。

たまたまといえば『大学教授のように小説を読む方法』を直近読んでいたこともあって、ヨナタン/ジョナサンが漁師小屋や漁村で育ったことの意味が読めて、読みが深まった気がする。

もちろんまだまだ知識不足だらけだ。何なら〈裁き司〉がつまりは聖書の「士師」をもとにしたものであるというのは今回訳者あとがきを読んで初めて知った。「裁き司」の訳語を採用したのが独特のファンタジー的雰囲気を強めていて好きだ。



内容の話。
ジョナサンが地上を去るところで「そうだったー!」と思い出して少し立ち直れなかった。この物語はネシャンと地上が融合することがひとつのテーマなのでヨナタンとジョナサンがひとつになるのは当然といえば当然なのだが、ジョナサンが去ったあとの地上の様子にはどうしても寂しさを覚えてしまって。ジェイボック卿やサミュエルは穏やかだったけど、指輪物語の最後のビルボやエルフたちが中つ国を去るところのような寂しさが、どうしても…。

確か同じイーザウの『ミラート年代記』でも双子が融合するような展開だったと記憶しており(曖昧ですが)、イーザウの傾向だったりするんだろうか。


なぜ全能なる神が作ったのにこの世には悪があるのか?悪はあるが、人は自らの意志で選択ができる。それを妨げる・曇らせることこそがバール=ハッザトやメレヒ=アレスの悪である。


聖書・キリスト教的文化の中で育った人にはまた違った風な作品になっているのだろうか?改めて聖書をもう少しちゃんと読んでいきたいなと思った。

大串夏身『レファレンスと図書館:ある図書館司書の日記』

以前、小林昌樹『調べる技術』を読んだ際に紹介されていて気になっていた。図書館にあるのを見つけたので貸出。

1988年の東京都立中央図書館での一般参考係のレファレンス日記。昭和の終わり、電算機端末の利用が始まったころ。過渡期の時代を感じる記録で興味深かった。

今ちょうど通信の司書課程で情報サービス演習のメディア授業を受けているけど、なかなか独学の限界を感じる部分があり。リアルな現場を垣間見るとイメージが少し立体的になった気がする。当然ながら内容はものすごく古いので、これの現代版があれば読みたいところ。とりあえずレファ協データベースを眺めながら調べ方をトレースしてみたらよいのかな。同著者の「チャート式」のものも気になる。学生時代から文献調査に苦手意識があったのでこの機会に克服もしたい。

対談部分では現代のIT社会について触れられている。
エコーチェンバーやフィルターバブルの問題について。「知る自由」「表現の自由」が保障されているようでそうではない現代。最近twitterを見ていて色々と考えがちであり、ものすごく身近に感じながら読んだ。憲法的な価値を支えていくための社会装置としてのレファレンスと図書館。そういった形で働けたらすごくいいなぁと思う。

司書課程を勉強していて良かったことのひとつには社会教育・生涯学習施設としての図書館の考え方について触れられたことがある。「社会の役に立たなくちゃ」というのはある種の呪いでもあったけど、いざ楽だけど社会貢献度が見えにくい仕事に就いたらなんだかものすごくモヤモヤしてしまったりしていて、それも転職を考えるきっかけになった。仕事が好きじゃないからかなぁと思って好きを仕事にしてみようと司書課程をはじめたけれど、今は「好き」だけじゃない部分も含めて司書を仕事にしたいしもっともっと勉強したいと思っている。

沖縄県立博物館と文化講座「沖縄の美ら星~豊かな星文化にふれる~」

今日はほとんど一日中県立博物館にいた。
お目当ては博物館文化講座「沖縄の美ら星~豊かな星文化にふれる~」。
okimu.jp
先日行ったプラネタリウムでチラシを見かけて気になっていたのと、知人にも紹介されたので。

講座自体は午後の2時間ほどだけど、県立博物館自体がかなり久しぶりだったので午前から入って常設展示を見ていた。常設展示に入ったのもおそらく10年ぶりくらいになるはず。
ちょうど最近那覇市立歴史博物館の方にもふらっと行っていたので、琉球王国関係の展示は繋がる部分もあってより興味深く見れたように思う。(那覇市歴史博物館の方は首里から地方に移り住んだ士族の文書中心企画展示と玉冠の特別展示の時期だった)

10年前、南部の田舎の家から南部の田舎の学校に通っていた頃は、ごくごく狭い生活圏の外のことはどこも一纏めに「外のこと」だった。世界史を学ぶのも日本史を学ぶのも琉球・沖縄史を学ぶのもほとんど感覚的には変わらなかった。地元の市町村史を読むくらいのレベルでようやく「足下の歴史」を感じていたりした。
それが今は転居したのもあるけどだいぶ広い範囲を自分の地続きで感じられるようになっていると思った。大人になったなぁと思わなくもない。
最近那覇市内の図書館巡りをしていたときにも郷土資料コーナーを見て感じていたことだけど、「足下を知る」というのを地方自治体が支援してくれるのは重要なのだなと思う。

博物館に行くと、「もっと知りたい」と思うことが多い。展示物はごく一部だし、説明書きもあくまで短い文章だし。もっと知識があったらもっとわかることもあって面白いんだろうなぁと悔しくなったりする。古文書読めたら絶対楽しい。絣や紅型の知識ももっとあれば企画展ももっとよく見れただろうな。
司書課程の生涯学習論などで博物館にもちょっと触れているのもあって、生涯学習施設としての博物館をしみじみ感じた。
いくつか気になるテーマがあるのでまずは今度図書館で調べてみよう。適切な資料を見つけられるか自信がないが、なるほどこういうときにレファレンスサービスって便利なんだろうな、とも思った。情報サービス演習のつもりでやってみるつもりだ。


本題、お目当ての文化講座。
こちらも知らない話もたくさん知れて楽しかった。特に「ぱいがぶし(ケンタウルス座α、β星)」の説明は、先日のプラネタリウムでの民話紹介でちらっと登場していたが星名が特定できなかったもの(説明があったかも知れないが聞き逃していた)とつながってすっきりした。その時の民話も改めて紹介されていた(「星女房」の話だった。話の導入として「星の位置で農作業の時期を計っていた」という説明があったときに、画面上に意味ありげに映っていた2つの星のならびが多分ぱいがぶし=ケンタウルス座α、β星のことだった)。

「鹿川の三美螺」について。「寿星螺」は「寿星(カノープス)」が名前に含まれているのがおもしろい、という話で興味をそそられたが、帰ってからネットで少し調べてみると、和名の漢字は「寿聖螺」のパターンもあるらしい。
ジュセイラ | 美ら海生き物図鑑 | 沖縄美ら海水族館 - 沖縄の美ら海を、次の世代へ。-
コトバンク日外アソシエーツのものには星バージョンの見出しもあるので確かにある用法ではあるらしい。
寿星螺(ジュセイラ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
鹿川の、ではなく「日本三美螺」(吉良哲明氏)とされているそうだし、紀伊半島ぐらいまでは分布している種みたいだし、和名の由来などこの辺はもう少し調べた方がよさそう。これも図書館でも調べてみよう。
Microshells: Cymatium rubeculum ショウジョウラ 猩々螺

星にまつわる民話についての興味が強まった。元々ギリシャ神話系だけでは物足りなくて、世界の星の伝説が載っているような本も何冊か読んでいた。
こういう本とか。

今回の講座は八重山中心だったので、やはり私の「足下」感は薄かったというか、地元だとどうだろう?というのが気になった。でももうどれだけの人が“民話”として話を覚えているだろうか。少なくとも私は、星に興味があるはずの父からもその手の話を語り継がれたことがない。
民話等の口承文学を「語り継ぐこと」についても関心がある。図書館でのストーリーテリングもそうだし、エンデもそういったものを好んでいたので。
まずはこちらも図書館で関連資料を探してみる。
ちなみにこれはミュージアムショップで買った。博物館に行った後に図録や関連本を買うのが好き。


常設展も全部は見きれなかった。
来月にもおもしろそうな企画展等があるので、次は年間パスポートを買おうかなと検討している。
今後もこまめに行きたい。

ミヒャエル・エンデのこと

今日はミヒャエル・エンデのお誕生日。それにかこつけて「エンデと私」みたいなことを少し書いておこうと思う。


好きな作家をひとりだけあげよと言われたら、私はたいていミヒャエル・エンデと答えることにしている。もちろん他にも好きな作家は山程いるけど、自信を持って「好きです」と言える筆頭がミヒャエル・エンデなのは、少なくとも岩波の全集は一通り読んだからだ。日本語で読めるエンデの著作やインタビューはほとんど触れたことがあるはずだ。「好き」なものには精通していなければと気負ってしまうのは悪いオタク気質だと思うけれども。


エンデ好きとしてのエピソードとしては、黒姫童話館のエンデ常設展にも行ったことがある。はてなプロフィール画像の亀の写真はそのときのもの。夏のエンデの命日に合わせていった。売店でドイツ語ハードカバーの『はてしない物語』を買った。読めないけど。ドイツにも行きたいので現実的にお金を貯めようと思う。


実は「最初に読んだエンデ作品」は詳しく覚えていなかったりする。多分、『はてしない物語』を読もうとして挫折したのが最初の接触だと思う。確か小学3、4年生くらい。単行本のあの佇まいとタイトルに惹かれて地元の公共図書館で借りたのだが、なんだか黴臭くって気持ち悪くなってしまい、かなり最初の方で離脱してしまった記憶がある。


その後に『ファンタージエン:愚者の王』に出会った。こちらは学校図書館だった。先述の通りはてしない物語は挫折していたので『ファンタージエン』のタイトルでもはてしない物語との関連性が思い出せない状態であり、単純にタイトルと装丁に惹かれて手に取っただけだった。愚者の王は面白かったが、当然はてしない物語は読んでいる前提で話が進むので初見時はだいぶ混乱していたのもよく覚えている。


愚者の王のあとにはてしない物語を読んだのは確実だけど、すぐに読んだのか、『モモ』『ジム・ボタン』『自由の牢獄』を挟んだのかの記憶が曖昧だ。ジム・ボタンからな気がする、薄くてとっつきやすそうと思ったような。


そう、『自由の牢獄』があったのだ、小学校の図書館に。エンデにここまで執着するようになったきっかけはこの本だった。

『自由の牢獄』の中では「遠い旅路の目的地」「道しるべの伝説」が特に好きだが、全般通しての"郷愁"のようなものにわけもわからずボロボロ泣きながら読んだ。小学生でずっと地元に住んでるのにね。それでもシリルが、ヒエロニムスが、強烈に刺さっていた。当然小学生には難解で哲学的で、私が「書いている意味がわからない」と思ったほとんどはじめての物語だった。


中学校の図書館にはエンデがもう少しあった。ジム・ボタンの続編、『魔法のカクテル』、『サーカス物語』。サーカス物語ははじめて読んだ戯曲形式の本だったと思う。シェイクスピア等は小学校にあったジュニア版的なもので触れていたけど、戯曲の状態ではなかったはず。そして何より『鏡のなかの鏡』。自由の牢獄でやられているのに好きにならないわけがない。改めてエンデが好きだと思ったし、もっと読みたい、もっと理解したいと思うようになった。


高校の図書館には岩波のエンデ全集が揃っていた。初版の配本にあった小冊子もついていた(エンデのラスト・トーク)。入学してすぐに存在に気がついて本当に本当に嬉しかった。もちろん貪るように読んだ。対談集やエッセイも興味深くて、エンデが読んだ本を私も読みたい、エンデと同じ世界が見えるようになりたいと思っていた。ドイツ語の独学もこの頃にはじめた。一番のお気に入りは『闇の考古学』だった。『エトガー・エンデ画集』を求めて県立図書館に行ったりした。ちなみに画集はその後古本で買った。大学生のときに神保町をウロウロしたのも楽しかった(結局見当たらなくてネットで買ったんだけど)。次は全集を全部集めたい。


独学でドイツ語をやっていたのもあって大学ではドイツ語/独文学を学ぼうかと思っていた時期もあったが、色々とあって結局その道にはいかなかった。教養科目で取ったりはしていたけど。その道を選んでいたらどうなってたかなというタラレバはどうしても考えてしまうことはある。


その点ではある種エンデに呪われていた。いっそエンデになりたかった私はエンデを文学研究の対象にしていいのかわからなかったし(文学研究のなんたるかもわかってはいなかったが)、逆にエンデを全肯定することに危機感も覚えていた私はエンデを超えなくてはとも思っていた。エンデと同じだけのものを見て、それに加えてエンデが見られなかったものも見てやろうと。青年期の青臭い感じで思い出すとちょっと恥ずかしい。でもそんなあの頃の自分が結構好きだったりもする。


エンデ自身も、「ブレヒトを克服するのに苦労した」というようなことを言っている(『芸術と政治をめぐる対話』)。エンデにとってのブレヒトと私にとってのエンデは多分一緒ではないが、なんとなく重ねてしまっているかもしれない。


今年に入ってからも『はてしない物語』を読み返したりしているが、今読むとやはり昔とは違う視点で読めているなと感じることがある。私はエンデにはなれないしならない、「超える」なんてこともないが、私なりに私としてエンデ作品と今後も向き合っていきたいなと思う。エンデと格闘しようとするのではなく、もっと素直に。エンデにとっての物語もそもそもそういうもののはずだ。

眼鏡を新調した

外出用の眼鏡を新調した。多分8年ほど同じ度数・フレームのまま使っていたから新鮮な感じ。

昔は度数の合わなくなった眼鏡を「手元用」として使っていたけれど、ここ数年はわざと度を落とした眼鏡を新品で買って手元用にしている。最近は眼鏡が大分安く気軽に変えるようになったよなと思う。今回の眼鏡は久しぶりの度数強め調整だし昔ながらの専門店的なところに行こうかな?とも一瞬考えたが、結局やすさ・手軽さの魅力には勝てなくって量販店ものになった。

仕事で一日中パソコンを触っているのもあって、日常のほとんどを手元用眼鏡で過ごしていて、本来メインユースだったはずの外出用眼鏡はほぼ運転専用眼鏡になっていた。ただ、近頃図書館に頻繁に通うようになると手元用眼鏡の度数では書架での本探しにかなり不便を感じるようになり、運転でも若干見えにくさを感じてもいたので今回の新調にいたった。これで図書館での本探しが捗るようになると良い。

トーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法(増補新版)』

本はそこそこ読んでいたが、ブログは少し間が空いてしまった。若干遡るけどこの本は良かったので備忘録的に書いておきたい。

英米文学教授の著者が、わかりやすい語り口で象徴の読み解き方や間テクスト性などのちょっとテクニカルな文学との向き合い方を解説してくれる本。

文学系の授業は米文学の概論と独文学の入門演習のようなものをそれぞれ1科目ずつ齧った…という程度だったので、文学部の授業っていったい何をするんだろう?文学部の読み方と私の普段の読み方はどう違うんだろう、と気になっていたりした。

あくまでアメリカの大学での英米文学の話だから日本/日本文学のそれとは違うかもだけど、なんとなく方向性は感じ取れた気がする。少なくとも独文学の入門演習で要求されてたことの意味はようやくわかったのかも…ちなみにホフマンの『砂男』なんかを発表担当で読みました(翻訳で)。

実のところ、この本で紹介されているような読み方はすでにある程度はしてたなと思った。前述の演習授業で軽く触れてたのもあるけど、それ以前に私の場合はミヒャエル・エンデに強めに衝突してたのが大きいと思う。

特に『鏡の中の鏡』『自由の牢獄』の2冊。それぞれ小中学生の頃に背伸び気味に読んでいて、なんじゃこりゃ、何かわからないけど面白い…!とわけの分からなさに衝撃を受けた私は、わかりたくてだいぶエンデと格闘していた。幸い高校の図書館には岩波のエンデ全集が揃っていたので、全部読んだ。対談集やエッセイ的文章からエンデが影響を受けたものを片っ端からメモしていたりした。そのうち読めたものはほぼないけど…。当時のドイツ事情を調べたりキリスト教だけでなくシュタイナーなんかも勉強しようとしたりしていた。ドイツ文学の流れでカフカも読んだりしていた。

ドイツ文学/ドイツ語を専攻するのは結構受験ギリギリまで選択肢に入れていた。そこに踏み切らなかったのはエンデが文学的に解釈されるのが嫌いみたいなことを言ってたからだったりする(具体的にどこの記述だったかは記憶がもう曖昧だけど)。最終的には入学した大学が文学と言語学を別学科レベルで扱うところだったので言語学を選んで文学は諦めた。

エンデで培った癖で自然と解釈的な読みをしていた部分があったけど、今回のこの本でより具体的に『読み方』のイメージがついた気がする。じっくり本が読みたくなる本だった。


この本の素敵なところは著者自身が読書を楽しんでいるのがよくわかるところ。押し付けがましいところがなくて、あくまで読書を文学教授風に楽しむためのtipsを開陳してくれている感じだ。この読み方ならエンデだって許してくれる、というか許されるも何も無い、作品はもうエンデの手を永遠に離れて固定化された状態で私の目の前にあるのだから。ここから何を読み取るかはあとはもう私と作品の間の問題だ。

ヴェニスの商人』の評価に対しての葛藤の部分が印象的だった。「ユダヤ人」についての話題が飛び交う今だから、特に。それ以外にも差別的な表現等へも向き合おうとする姿勢が真摯だと思った。


最近はTwitterなんかでいわゆる『考察』的な読み方が流行っている。そのムーブメントや取り巻く言動等には色々と思うところもあったりするのだけど(自戒も込めつつ)、テクニカルな読みというものに興味がある人にはおすすめの本じゃないかなと思う。

船越義彰『小説 遊女(ジュリ)たちの戦争:志堅原トミの話から』

那覇市立若狭図書館にて。辻にほど近い図書館で読む。

(完全に不注意なのだが)「小説」の文字を見落としていて実録のつもりで読んでしまった。しかし、その勘違いのまま読み終えてしまえるほど真に迫っていた。

著者に元辻のジュリ・志堅原トミが自身の戦争体験を語るという構成。途中途中に実際の写真が挟まっていたり、著者が記録等を元に詳細な日時場所を推定したりといった部分があり、それが真実味を補強していた。

実際はモデルは一人ながらも複数人に取材したとあとがきにあり、複数人の体験談が一人の物語に集約されているのだとしても、あぁたしかにこういう人がいたのだろう、と自然と思える。

これまでにも沖縄戦関係の本は何冊も読んだことがあるし、平和学習も毎年のようにあった。その中で「辻のジュリ(そしてその後慰安婦になった人たち)」の視点で考えたことはなかったかもしれない。一人ひとりの戦争を改めて考えさせられた。小説ではなく元の取材の資料も気になるけれど、実名ではとても語れないのかもしれないとも受け止められるような、そんな重さの語りだった。

特に印象的だったのは清子だった。戦場のさなか紅型の着物で歌い踊り狂っていた清子。狂っているのに、ある意味で誰よりも正常に戦争を見ていたのかもしれない人。喜屋武で清子を探しに行かなかったことを語ったあと言葉が続かなくなったトミの描写。

今回、この本を若狭の図書館で読めたのがとても良かった。辻は若狭のすぐそこだ。まさしくここでトミたちは生きたのだと噛みしめるようにして読んだ。地域の公共図書館の意義を思いながら読んだ。