つかのま。

読書と日々考えたこと

明日が怖いと思う日に

アメリカとイスラエルによるイラン攻撃以降、色々なことを考えている。

このブログは、考えたことをどこかに吐き出しておきたくて書く乱文です。書いたはいいけど非公開にする可能性もあります。あとから編集も多分する。


実は来月、旅行に行こうと思っていた。仕事が忙しくて計画が立てられていないうちに予定日1ヶ月前になってしまったが、私はまだ飛行機もホテルも有給休暇も取れていない。

明日が怖いからだ。

アメリカとイスラエルが躊躇なく"先制攻撃"を宣い、そこからズルズルと泥沼化していくニュースに、日々先行きの見えない不安を重ねている。

攻撃直後のラジオのニュースで、欧州各国が若干濁しながらも国際法違反について言及した声明を出したのを聞いた。特にスペインがはっきりと指摘しているのを聞いて感心したのもつかの間、一方で日本政府はイランだけを批判していた。ひどくがっかりしてしまった。同盟国の綱渡りにしたってせめてのらりくらりと「エスカレーションしないよう双方自制を」ぐらい言えないのか。個別事象と限定せずとも一般論として〜の体でも何も言えないのか。周辺国にも被害を出しているイランの反撃を批判するなとも思ってない。日本政府がこの件に言及する際イランの批判"だけ"なことに毎度がっかりしている。

アメリカ・イスラエルの武力行使を批判することは、イランの現体制を全面肯定することとは当然イコールではない。私は基本的に「問題解決の手段として暴力を正当化するな」という考えです。

今回、交渉が進行中だったのに先に対話をやめ、暴力を問題解決手段として選択し、実行したのはアメリカ・イスラエルだ。本人たちが自分で"先制攻撃"したと言っているんだから疑いようはない。

「戦争はダメ」「先制攻撃はダメ」という認識を国際社会はある程度共有しているのだと思っていた。だから直近の国際紛争ではみんな"自国民保護のため"、"自衛のための特別軍事作戦"と言ってみたり、"これは個別事象〇〇の報復"と言ってみたり、なんやかんや建前を作るんだと思っていた。

でも今回、アメリカ・イスラエルは堂々と"先制攻撃"だと言っている。差し迫る脅威があったと彼らは主張するが、トランプはその根拠として攻撃される"気がした"などとも言っている。そんな根拠での"自衛"を正当だと認めたら、なんでもやりたい放題になる。特に防衛費増とかしようと動いたりしてたら、そんな難癖をつけられやすくなる。だから防衛力強化を絶対するなというのではない。防衛力強化をしたいなら、そんな難癖ダメだよねという風潮を国際社会に作っておくべきなんだという話。そういう社会でこそ憲法9条はより大きな意義を持つようになるはずだとも思っている。

沖縄で育ち、生活する人間として、米軍基地を通じてアメリカの戦争に巻き込まれることにも懸念を抱いている。イランは報復対象に周辺国の米軍基地を選んだ。当然の流れだと思う。そりゃそうだし、国際社会の認識では「民間施設や一般市民狙うのはNG」なはずだからこそ、誤爆やなんやがあっても「あそこは実は軍事施設なんです」「人間の盾として使うほうが卑劣だ」と主張するのでしょう。「沖縄は"地政学的に"重要な土地だから(米軍基地負担はしょうがない)」と言われる度に、じゃあなんでそんなだいじな土地を、自国でコントロールしきれない外国の軍隊にだいぶ使わせちゃってるんでしょう、と私はこれまでも思ってきたよ。

ホワイトハウスの公式アカウントとは思えないMADじみたプロバガンダ動画にも毎度驚いてしまう。トランプの言動もだいぶおかしいけど、この投稿を止められる人はひとりもいなかったのか?と。日本の作品をやたら素材にするのも、何も言えないのか。

こういうことが重なると愛国保守ってなんやねん、という気持ちになるんだけど、そういえば石破茂が総裁選勝ったニュースを実家で見ていて家族が「この人は普通そうでよかったね」みたいなことを言った時に、政治家への興味は普通程度なのになぜか"石破茂はタカ派っぽい主張してた人"というイメージはうっすらあった私は「でもこの人も結構右派の人でしょ」と返したのだった。今でもやはりあの人は保守の人だと思っているけれど、なんというか、真面目に政治を考えている感じがいいなと思っている。でもそんなのあたり前のレベルであってほしいとも思っている。真面目な話を真面目にしよう。真面目な話なんだから。


明日、首相の訪米次第でいったい何の話をしてくるつもりなんだろうかと不安でしょうがない気持ちになってしまう。うまく切り抜けても影響は長引くだろうし、旅行なんて行ってる場合じゃなくなるんじゃないかしらとふと思ってしまって、計画を立てる腰が重くなる。はじめて首相官邸のお問い合わせにメッセージを送ったりもした。

私は何も気にせず旅行に行きたいし、1年後にはドイツ旅行だってしたい。そろそろ影の縫製機が手元に届くはずだし、他にも欲しい本を買い漁りたい。起きて一番にニュースを心配したくない。明日を心配せずに生きていたい。

明日何があっても、そこで世界が一気に終わるわけじゃないとも思う。諦めない限りまだ終わりではなくて、少しでもよいと思える未来に進むためにできることは多分まだいくらでもある。

絶望している場合ではない、嘆いている場合でもない。明日がどんなに怖くても、明日はやってくるのだし、どんな状況でも考えるのをやめない人でいたい。

【ドイツ語学習】再開1ヶ月目の記録

1月からドイツ語学習を再開して、約1ヶ月。

まず手始めに清野智昭『ドイツ語のしくみ』をざっと通読。ドイツ語ってこうだったよね〜という感覚を取り戻した。

 

同著者の『中級ドイツ語のしくみ』も続けて読んでいるので、こちらも読み終わったらまとめてまたブログに書く予定。このシリーズはとりあえず新書感覚でざっと初級文法の概観を掴めるところが好き。

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メイン教材は森泉『しっかり身につくドイツ語トレーニングブック』。これも終わったら別途ブログで書くが、まさしく"筋トレ"よろしくひたすら独訳をしていくドリル形式の本。

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何度もドイツ語に取り組んではそのたびに名詞の性、格変化、人称変化などが覚えられずに泣いていたが、このトレーニングブックは「そりゃこんなに書いたら身につくよ」という物量で攻めてくるので、気がついたらさらっと格変化が出るようになっていたりして自分でびっくりしている。私は多分今人生で一番ドイツ語が読めています。

 

とにかくたくさん書くので、より楽しく勉強したくて新しい万年筆を買った。LAMY safari のイエロー、F。やはりドイツ語を書くならドイツの万年筆。スラスラ書けてとても気に入っている。ドイツの初等教育では万年筆を使うのだそうな。形から入って気分を高めている。

 

名詞の性は相変わらず覚えられずに苦戦していて、ここ数日は文中での色変えを試してみている。結構良さそうな手応えはあるが、いかんせん面倒くさいのでどうしようか悩み中。

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毎日1課目標で進めていたが前置詞の課のボリュームの前に挫折。とにかく2月中に終わらせるぞ、と目標を再設定してコツコツ進めている。今はまだ14課。

 

 

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Duolingoもぼちぼちやっていて今この辺り。まだHigh A1くらいの位置らしく、先はとても長いが焦らずじっくりやっていきたい。

 

どうしても文法メインだと音をおろそかにしがちなので、Duolingoで毎日少しずつでも音に触れているのは結構良いなと感じている。単語と意味をマッチさせる問題、名詞は冠詞付きで出してくれたらいいのになぁとは思う。

 

YouTubeをダラダラ見てしまう時もできるだけドイツ語かせめて英語のコンテンツを再生するようにしている。

 

ドイツ語ではEasy Germanのチャンネルが、独英字幕つきで今のレベルでも見やすいので、少しずつ見ている。ポッドキャスト版はまだ難しい。

 

Deutsche WelleのNico's wegもA1の分をざっと見てみた。全体のストーリーは概ね把握できるが、一つ一つの会話は後半に行くにつれ厳しくなってくるレベル。まずはこれを十分聞き取れるようになるのが目標。

 

ぼんやり流していたショート動画で、英語からドイツ語にスイッチするものがあった。それを聞いてて最初スイッチに気づかないくらいスッと意味が分かる瞬間があって成長を感じた。超簡単な内容だったんだけど。

 

なかなか先が遠くて途法に暮れるときもあるけど、同時に少しずつでも日々わかることが増えてきている。この調子で続けていきたい。

 

 

ドイツ語学習を再開した

今年に入ってから、ドイツ語学習を再開している。といってもDuolingoのコースをドイツ語にしたくらいだけど。

 

去年は約1年間韓国語をやっていた。かなりのんびりやっていたのでまだまだだが、街中のハングルの読み方が分かるようになったり、耳で聞こえてくる韓国語で時々単語が聞き取れるようになったり、日常的にも成長を感じられて楽しかった。1日1レッスンくらいのペースだから現在地はこれくらい。

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ちょうど気になる韓国語小説ができたりもしていて(縦読み漫画の原作のネット武侠小説だけど)、このまま韓国語を続けてもよかったのだが、今年はドイツ語の年にしようと去年の後半から決めていた。というのも、来年の後半にいよいよドイツ旅行を実現したくて。

 

ミヒャエル・エンデと格闘するようになって以来、ドイツ語は「いつか読めるようにならなければならない」言語の筆頭だった。

 

高校生頃から独学をはじめて、大学でも第二外国語として履修したりドイツ語学の講義をとったりもしていたが、これがなかなか難しく…。基本文法はある程度覚えても主に単語の性や語法、スペルが全然頭にはいらず、それでしょっちゅう学習を再開しては他の言語に浮気して…を繰り返すてしまい、ずっと初級を低空飛行し続けている。

 

「ドイツ語が分かるようになったらドイツエンデ旅行にいきたい」とはずっとうっすら思っていたけれど、このままじゃ一生行けないな…という焦りと、昨今の情勢を思うと海外旅行も行けるうちに行っておくべきだなと強く思うようにもなり、順番を変えて「来年ドイツ旅行に行くために、ドイツ語が分かるようになりたい」に方針変更することにした。

 

Duolingoを再開するとやはり全然覚えておらず、初級すら怪しいレベルに落ちてしまっている…。まずはサクッと復習を進めて、検定試験などの目標に加えてペースメイクしていきたい。独検かな。出入りできる大学図書館にドイツ語の多読用GRがある程度あるのも見つけたし、あれを読破するのも目標にしたい。

 

ちなみに10年前(!)に黒姫で買った『はてしない物語』のドイツ語版も、実家から引き上げてきた。読めるようになりたい…!

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とりあえず今年の目標は

・ドイツ語をせめてB1レベルに引き上げる

└DuolingoのB1レベルまでのコース完了(今公開されている分の英語→ドイツ語コースだとB1の入口くらいまではいけるらしい)

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独検2級目標

大学図書館のドイツ語GRにチャレンジする

・旅費を貯める

といったところ。

 

今年こそは本気でドイツ語の年にしたい。

 

 

村山早紀『100年後も読み継がれる児童文学の書き方』

ハウツー本というよりは「児童文学作家を目指す人のための心構え」をエッセイのような語り口でまとめた一冊。
付録として著者の短編作品『トロイメライ』を例に、構成や表現、こめたメッセージなどを解説した部分があり、ここはかなり技術的にも参考になり、興味深い。

発売直後に買っていた本をなんだかタイミングがなくて積んでいたのを、昨日、エンデの「ポジティブなユートピア」と児童文学のブログを書いていたときに、ふと思い出してパラパラめくり、そのまま勢いで読み切った。
tsukanoma.hatenablog.jp

私が『シェーラ姫の冒険』や『さやかに星はきらめき』から受け取っていた祈りがそのまま言語化されているように感じて、嬉しかったし、昨日のブログも自信を持って書けた。私が昨日のブログで書いたようなことは、だいたいこの本に書いてあります。

作例の『トロイメライ』も、まさに今のタイミングで読むのにすごくよい作品だった。昨日のブログでも触れた戦争の雰囲気のこともそうだけど、ちょうどたつみや章(環境問題をテーマにした作品が多い)を一気読みしていた流れだった、という超個人的なタイミングも合わさって。

いまの時代の子どもへ、この先の未来へ、手紙を書くように物語を綴り、置いてゆく――それが子どもの本を書くという仕事です。

あぁ私はそういう児童文学が好きだなぁ、と思ったし、その手紙を受け取って育った子どもとして、改めてお返事をしたくなった。実際、こういったブログを書いたりすることを通じて村山早紀先生にも読んでいただけたり、Xでもコメントをいただけたりしていて、お返事ができたような気がしている。まだ何もできなくて泣く日もあるけれど、あなたのお手紙を忘れないで大人になりましたよ、と。たつみや章先生にもなんだかとっても感謝を伝えたいなぁと思っていて、『月神』を講談社文庫で出してください、というリクエストついでに、講談社あてにお手紙でも書いてみようかなと思っている。

主役の存在しない舞台で、数知れぬたくさんの脇役たちがそれぞれに精一杯生きている、それがこの世界です。

この言葉がすごく好きだ。
先日の『新シェーラ』の記事で「みんな主人公」という台詞がよい、と書いたけど、私の実感としてはこっちの表現の方がよりしっくり来るのだった。

学生の頃、私は主人公どころか背景に描写されてりゃラッキーなモブだなぁと思ってしまうことが度々あって、どこにもいけないような気持ちになってしまったことがある。そんな私が大好きだった本が『ファンタージエン 愚者の王』。世界を救えないとメタ的にわかっている女の子が、世界を救うために旅するお話。この本の話はまたきちんと読み返しをしてから別でしたい。なおこの本を読むためにはその前に『はてしない物語』を再読するという儀式を行うべきなのでだいぶ重い。同様の「世界のモブ」に関する描写としてはあんさんぶるスターズもなかなかだと思っています。


私も昔、小説家になりたかった。いくつか物語を書いていたけど、厳しい道だと早々に知って、夢という名の呪いを背負いつづけるほどの覚悟はなくて、諦めてしまった。多分性格や能力的に適性もあまりない。

今もやっぱりいつかは職業作家に…という夢は見れないなぁと現実的に思いつつも、そういう物語を書いて、誰かに読んでもらえたらいいなぁとはちょっと思っていたりもして。幸いにも「子どもの頃の私が読みたかった物語」にはすでに素晴らしい作品が山ほど在って、私は子どもの頃にきちんと出会えていたので、私が書く必要なんてないかと思っちゃったり、何を考えてももっと優れた既存の作品が思い浮かんでしまったりもするけど、何か一つぐらいは書いてみたいな。今年の目標の一つにしてみようと思う。

<理想郷>を諦めないこと

今日、アメリカがベネズエラに対して軍事行動を起こしたそうだ。
他の様々な国際情勢や国内の雰囲気も重なって、あぁ世界はどこへゆくのだろう、と暗い気持ちになりながら買い物をしに外に出たら、今年最初の満月が、大きく明るく東の空に昇っていた。

その月を見ていたら、ここ最近、児童書を読み返す中で感じていた気持ちを思いだして、このブログを書いておこうと思った。


ミヒャエル・エンデは、度々『理想郷(ユートピア)』について語っている。人が生きていくためには、「ポジティブなユートピア」が必要なのだと(今手元にないので確かめられないが、『オリーブの森で語り合う』が一番詳しいはず)。エンデは現代文明批判的に紹介されることも多いが、「わたしは懐古主義者ではない」と本人が言うように(この出典は今とっさには思い出せない…)、あくまで見据える先は未来で、「まだ現実にはないユートピア」を描くためにファンタジーがもつ力を述べている。

その出力の一つの形が、『はてしない物語』だと私は思っている。あの物語はまさしく、現実で希望を持てなくなってしまった子供が、ファンタージエンへの冒険≓読書を通じて、自らが本当に望むことを見つけ、現実を生きていく力を持ち帰るお話だ。ほかにも、『鏡のなかの鏡』の「手に手をとって、ふたりが道を」や、『自由の牢獄』の「道しるべの伝説」あたりも、同じように「理想郷を忘れるな、諦めるな」と語りかけてくる物語のように思う。

未来はお先真っ暗だ、とどん詰まりになって諦めてしまったら、そこで本当に終わりなのだと思う。それと同時に、どんなに居心地が良くてもファンタージエンに永く居座ることはできない。私たちはファンタジーを通じて理想郷を夢見ることができるようになったら、それを忘れないままで現実を生きてゆかなければ、どこへもたどり着けない。まだ実在しない理想郷ははてしなく遠く、永遠にたどり着くことはないのかも知れないが、諦めてしまえば絶対そこにはたどり着けなくなってしまう。たとえ「彼方の世界の住人になる長子権」を持っていたとしても。

エンデ作品に感じるこの「理想郷を忘れるな」というメッセージとファンタジーの力と同じようなものを、私は最近読み返している児童書から感じている。

直近で読み返しているたつみや章作品・村山早紀作品は、どちらも全編都合がいいわけではない。現実は必ずしもやさしくないし、世界には問題が山積みで、汚いことも暗いこともあって、人間もとても弱かったりもする。それでも、作中には確かに優しさや善い人たちがいて、それは決して無駄ではないのだと描かれる。だからもう少し、人間を諦めないでいてみようと、物語を読み終わったあとには少しだけでも未来を見たくなる気持ちになれる。理想郷を諦めないでいてみようと思える。

周りの人間や世界だけではなくて、自分自身の中にある醜さ弱さのせいで彼方の世界の長子権を諦めてしまいそうになることもある。そのときの答えも、私は物語の中に見いだすことができる。
エンデのファンタジーでは善も悪も全部まとめて、そこに在るものと認めてくれるような心地がする。ヒエロニムスが「故郷」の門をくぐるのに資格など問う必要はなかったように。
たつみや章作品・村山早紀作品では、「これから変わればいいのだ」と背中を押してもらえる気持ちになる。ポイシュマが左手に握りこんだ戒めのしるしのように、過去を悔いる老ハッサンやサウードが、それぞれ自らに言い聞かせるように「正義の科学者」「正義の魔法使い」と名乗るように。

大人になった今読むと、どうしても作品のうしろに作者の姿を見ることがあるけれど、それがより一層、人間を諦めないでいられる理由にもなっている。だって、物語の登場人物たちは現実にはいないかもしれなくても、こんな物語を子供たちに宛てて書いた作者たちは確かに実在するのだから。子供たちに未来を諦めないでと祈ってくれる大人が、この世界には確かに存在するのだと思えば、私もそちら側に立ちたいと思えるから。


<理想郷>を諦めないでいよう。ほんのちっぽけなことでも、足下から始めてみよう。少なくとも自分のことは諦めないでいよう。忙しさにかまけて体調の悪そうなおじいさんを素通りしたとき、私の心は少し錆びて、素通りする人々の中で白状を掲げ持つ人に自分から声をかけることができたとき、私の心は少しだけ豊かになった。自分を諦めないでいよう、それを通じて、人間を諦めないでいよう。

村山早紀『新シェーラ姫の冒険』(愛蔵版)

夜中に『シェーラ姫の冒険』を読み終わって、今朝ブログを書いたばかりだけど、今読まないと読めない気がして『新シェーラ姫の冒険』まで一気に読んでしまった。

『新シェーラ』は前作に比べると読み返し回数が少ない。私が読み始めた時点で前作は完結済みだったが、新シェーラは私が小学生の間にリアルタイムで刊行されていったのだった。だから一気読みというのがあまりできず、一気読みしたのはもしかしたらこれで2度目くらいなのかもしれない。

『新シェーラ』は愛蔵版でもテンポ的に問題ないというか、むしろこうやって一気にがっつり読むのがあっているように思った。前作に比べると一巻一巻の区切りが弱めだからというのもあるのかな。前作の特にガラスの子馬までは一巻でひとつの宝石をめぐるお話があってそこでいったん一段落して、という流れだけど、新の方は「サウードおじさまを探す」という旅の目標はなかなか満たされず、かなりフレーズの息が長い感じ。逆にフォア文庫版を刊行追いながら一冊ずつ読んでいた時は、細切れに読んでいたせいで話のつながりがよくわからなくなってしまっていたのかもしれない。

一冊ずつ読んでいたときには実はあまりよくわからないな…と思いながら読んでしまっていたりしたのだけど、今回シェーラ→新シェーラと全20巻分を一気に読んで、今更このお話がわかった気がする。

新シェーラは前作よりも少しだけ年上の子向け、まさしく「シェーラ姫の冒険を読み切った、その先で読む本」なのかな、と。

前作のシェーラに比べると、主人公はぐっと身近な子供たちになる。母にそっくりなルビーだって、象すら持ち上げるお母さまに比べたらちょっと力の強い程度の女の子だ。そしてそんなルビーがひとり主人公な訳ではなく、それぞれの父や母に似ていながらもそれぞれのコンプレックスを抱えているサファイヤ、ハッサン、ジュドル。さらには「シェーラ姫の冒険」の伝説に憧れを抱きながらも自分はそのような存在にはなれないと諦めてしまうナルダやミシェール

彼ら彼女らは私たち読者だ。まさしく『シェーラ姫の冒険』を読んでわくわく憧れていた私たち。でも少し大きくなって現実を見れば、自分はシェーラ姫にはなれないと諦めそうになってしまう私たち。かっこいいお姫様でも賢い魔法使いでも勇敢な王子様でもない、自分は何者で、どうやって生きていけばいいのかわからない私たち。

冒険を通して、子供たちは確かに少し変わっていくが、ジュドルが「思ったよりは成長していない」と明るく語るところが印象的だった。新たな力をつけたのでもなくて、劇的に変わったわけでもなくて、でもそんなのに関わらず自分が大事にしたいものを見つけて、この世界で生きていたいと前向きに生きていく。過去の過ちは過去のもの。でも願えば未来の自分は変えられる。これは最初のひとりで抱え込んでいたファリードを仲間たちが誰も責めないところも印象的だったな。

全体的に、一つ一つのエピソードのドラマチックさも前作の方が大きいけれど、そのかわり、新ではもっと平凡で、身近な幸せや優しさを見つめるようなお話が多い。ありふれているように思えるそれが、誰かの思いの上に成り立っているのだということ。

世界を救う姫君の役目はサファイヤが担ったけれど、作中でも言われるように、「地上に生きる人間は、みんな主人公」なのだと物語は締められる。言ってしまえばありきたりのメッセージなのかもしれないけど、前作も踏まえてここまで積み重ねてきたエピソードの重みで、すとんと落ちて、じわっときいてくる結論になっている。世界を救ったお姫様の冒険譚の続編として、物語の外の現実で生きていくことになる子供たちへの贈り物として、このお話は書かれたのだなぁと思った。いっしょに生きていきましょう、この世界で。

それはそうと究極の執事セバスチャンが一体何者だったのかが気になってしょうがないのですが、むしろあんなに何でもできる究極の存在が脇役でぽろっと出て転がっているあたりも、「誰もが主人公なのよ」というメッセージを補強してくれているのだと思った。セバスチャンにはきっとセバスチャンの究極の物語があるのだろうけど、それはまた別の物語、別の時に話すことにしよう。ということかなと。

村山早紀『シェーラ姫の冒険』(愛蔵版)

新年明けましておめでとうございます。
2026年の読書はじめは愛蔵版『シェーラ姫の冒険』になりました。

昨年末、たつみや章作品を一気読みしていた流れで村山早紀作品も読みたくなっていた。私の中では『月神の統べる森で』と『シェーラひめのぼうけん』が同じような重さを占めているツートップ人生本だったりする。なのでこのブログは作品の感想と言うよりも思い出整理ブログみたいになっている。

年末にかけては『風の丘のルルー』シリーズを少しずつ読んでいたのだが、うっかり図書館の年末年始休館前に滑り込めず、ルルーは今3巻まででいったんお預けの状態。でも村山作品が読みたい気持ちがどうにもならず、加えて無料公開されていた『暁のヨナ』を読み始め、気がついたら最新刊まで全部読んでアニメも見終わってしまっており、「お姫様の冒険ファンタジー」への欲求が高まりすぎてしまった。ヨナ、面白かったです。

お姫様の冒険ファンタジーといえば『シェーラ』か『はるかな空の東』。どちらも購入済みで手元にあるが、年末年始で比較的時間がある(やるべきことはいっぱいあるけど…)今読むなら、ボリュームの多い『シェーラ』が優先かな~という経緯で、今年の最初の一冊になった次第。


『シェーラひめのぼうけん』を最初に読んだのは小学校低学年の頃。本をかなり読む方だった私は、早々に学校図書館の絵本コーナーでは満足いかなくなってしまって、やや背伸びして913の棚に足を運んだ。母校では「む」の棚は913コーナーの一番表側の真ん中付近で、ちょうど手に取りやすい位置にあった。

その中で目を引いたのが、『シェーラ』図書館版の深い緑色の背表紙。キラキラの宝石、かっこいい漢字のタイトル。引っ張り出して佐竹美保のイラストに一目惚れだった。以来、佐竹美保・絵の作品を表紙読みして数々のあたりを引いています。大感謝。

何分絵本以外の本を読むのになれていなくて本の読み方がわかってない頃だったので、確か1巻以外から読み始めたような気がする。2巻の『うしなわれた秘宝』からだったかな?このあたりは若干記憶が怪しい。

おまけに学校図書館では5巻の『空とぶ城』が紛失で欠けていたからそこは飛ばして読んでいたのだが、そんなことかまわないくらい夢中で読んだ。細かいところはきっとわかっていなかったし、何なら「シェーラ」の名前を「シェラー」と誤読していたりしたけれども、とにかく面白くてわくわくして、背伸びをしながら読んだ。

この背伸びから私は913棚を住処にして本を読みあさるようになった。私の読書のターニングポイントのひとつで、この出会いがなければどうなっていたのだろう、と思うような、大事な作品だ。

それ以来、小学生の間はおそらく年に一回は読んでいた。『空飛ぶ城』も地元の公立図書館にはあったので、そちらにも通うようになった頃から読めるようになった。何度読んでもわくわくして、読み返すたびに新しい発見があって、自分の成長を感じたりもした。何なら今回も『空とぶ城』でサウードが長老の陰謀(についてのミリアムの推理)を聞いた途端にカッとなって都市を落としていることに今更気づき、『ガラスの子馬』に至るまでのサウードの心情を改めて咀嚼したりしている。通読以外にも『ダイヤモンドの都』『海の王冠』『ガラスの子馬』あたりはその巻だけ抜き出して読むということもあったから、人生で一番読み返している本はおそらくこれらの巻のうちのどれかである。

オリキャラを考えて、シェーラたちと一緒に冒険する妄想をしたりもした。ハイルはかっこいい憧れのお兄さんだった。灼熱の地面を見ると私も目玉焼きの実験をしたくなった。サウードのハッカ水は永遠の憧れ。

最初に読んでいた頃はとにかくわくわくが強かったけれど、成長するにつれてシェーラをはじめとした登場人物たちの生き様に、救われたり影響を受けたりしてきたなぁと感じることが増えてきた。シェーラは強くて優しくて明るいお姫様だけど、『海賊船シンドバッド』で見せたような弱さもあったりもして。ファリードやハイルが暗いところに引きずり込まれそうになっても立ち向かう姿や、サウードのように一度は転がり落ちてしまっても回復していく有様に、ほかにもたくさんの善い人々に、かなり影響を受けている。魔神たちの大きな愛にも。


そんなこんなで大事な作品だけど、私が大人になる頃にはもうフォア文庫版・図書館版は新品では手に入らなくなってしまっていた。いつかは全巻できれば図書館版で手元に置きたい…と思って中古で全巻セットを探したりもしていた頃、愛蔵版が出版されることになってすぐさま函入り版を予約した。手元に届いたときには本当に本当に感慨深かった。

愛蔵版は全10巻が上下2冊にまとめられ、ひらがなが漢字に直されていたり、魔法の詠唱がかっこよくなっていたり、台詞がちょっと変わっていたりする。とにかく手元に『シェーラ』がある、というのが一番大事なのだが、ちょっとだけ残念なのは挿絵がないこと。判型も変わってしまっているししょうがないのかなとは思うけど、口絵みたいな感じでもいいからイラストができるだけ収録されていればなぁ…とはどうしても惜しくなってしまう。でも読み返しすぎて記憶があるため、ない挿絵を脳内で補完して読むことができる。

もう一つ、今回愛蔵版で一気読みして改めて感じたのは、本を読む"テンポ"も大事だな、ということ。愛蔵版は2冊にまとめられている都合上、1ページに入っている文字数も多く、かなりがーっと勢いよく読めてしまう。それで夕方から読み始めて夜中には読み終わってしまったのだが、あれ、こんなにあっさりしていたっけ…と思ってしまったりもして。図書館版の全10巻を一冊読むごとに一休み、という風にして読んでたのとではかなり感覚が違う。トータルで読むのにかかっている時間は多分同じなんだけど。同じ物語でもこんなに「本の形」で読書体験が違うんだなぁ、と感じたりした。挿絵もやっぱりほしいし変更箇所の読み比べもしたいので、やっぱり結局図書館版の中古は買うと思う。

あとがきでも「30分アニメをイメージした」とあるけれど、本当にアニメ化しないかな。結構アニメ向きなのでは…と思っており。Eテレで2クールくらいでいかがでしょうか…。