つかのま。

読書と日々考えたこと

ミヒャエル・エンデのこと

今日はミヒャエル・エンデのお誕生日。それにかこつけて「エンデと私」みたいなことを少し書いておこうと思う。


好きな作家をひとりだけあげよと言われたら、私はたいていミヒャエル・エンデと答えることにしている。もちろん他にも好きな作家は山程いるけど、自信を持って「好きです」と言える筆頭がミヒャエル・エンデなのは、少なくとも岩波の全集は一通り読んだからだ。日本語で読めるエンデの著作やインタビューはほとんど触れたことがあるはずだ。「好き」なものには精通していなければと気負ってしまうのは悪いオタク気質だと思うけれども。


エンデ好きとしてのエピソードとしては、黒姫童話館のエンデ常設展にも行ったことがある。はてなプロフィール画像の亀の写真はそのときのもの。夏のエンデの命日に合わせていった。売店でドイツ語ハードカバーの『はてしない物語』を買った。読めないけど。ドイツにも行きたいので現実的にお金を貯めようと思う。


実は「最初に読んだエンデ作品」は詳しく覚えていなかったりする。多分、『はてしない物語』を読もうとして挫折したのが最初の接触だと思う。確か小学3、4年生くらい。単行本のあの佇まいとタイトルに惹かれて地元の公共図書館で借りたのだが、なんだか黴臭くって気持ち悪くなってしまい、かなり最初の方で離脱してしまった記憶がある。


その後に『ファンタージエン:愚者の王』に出会った。こちらは学校図書館だった。先述の通りはてしない物語は挫折していたので『ファンタージエン』のタイトルでもはてしない物語との関連性が思い出せない状態であり、単純にタイトルと装丁に惹かれて手に取っただけだった。愚者の王は面白かったが、当然はてしない物語は読んでいる前提で話が進むので初見時はだいぶ混乱していたのもよく覚えている。


愚者の王のあとにはてしない物語を読んだのは確実だけど、すぐに読んだのか、『モモ』『ジム・ボタン』『自由の牢獄』を挟んだのかの記憶が曖昧だ。ジム・ボタンからな気がする、薄くてとっつきやすそうと思ったような。


そう、『自由の牢獄』があったのだ、小学校の図書館に。エンデにここまで執着するようになったきっかけはこの本だった。

『自由の牢獄』の中では「遠い旅路の目的地」「道しるべの伝説」が特に好きだが、全般通しての"郷愁"のようなものにわけもわからずボロボロ泣きながら読んだ。小学生でずっと地元に住んでるのにね。それでもシリルが、ヒエロニムスが、強烈に刺さっていた。当然小学生には難解で哲学的で、私が「書いている意味がわからない」と思ったほとんどはじめての物語だった。


中学校の図書館にはエンデがもう少しあった。ジム・ボタンの続編、『魔法のカクテル』、『サーカス物語』。サーカス物語ははじめて読んだ戯曲形式の本だったと思う。シェイクスピア等は小学校にあったジュニア版的なもので触れていたけど、戯曲の状態ではなかったはず。そして何より『鏡のなかの鏡』。自由の牢獄でやられているのに好きにならないわけがない。改めてエンデが好きだと思ったし、もっと読みたい、もっと理解したいと思うようになった。


高校の図書館には岩波のエンデ全集が揃っていた。初版の配本にあった小冊子もついていた(エンデのラスト・トーク)。入学してすぐに存在に気がついて本当に本当に嬉しかった。もちろん貪るように読んだ。対談集やエッセイも興味深くて、エンデが読んだ本を私も読みたい、エンデと同じ世界が見えるようになりたいと思っていた。ドイツ語の独学もこの頃にはじめた。一番のお気に入りは『闇の考古学』だった。『エトガー・エンデ画集』を求めて県立図書館に行ったりした。ちなみに画集はその後古本で買った。大学生のときに神保町をウロウロしたのも楽しかった(結局見当たらなくてネットで買ったんだけど)。次は全集を全部集めたい。


独学でドイツ語をやっていたのもあって大学ではドイツ語/独文学を学ぼうかと思っていた時期もあったが、色々とあって結局その道にはいかなかった。教養科目で取ったりはしていたけど。その道を選んでいたらどうなってたかなというタラレバはどうしても考えてしまうことはある。


その点ではある種エンデに呪われていた。いっそエンデになりたかった私はエンデを文学研究の対象にしていいのかわからなかったし(文学研究のなんたるかもわかってはいなかったが)、逆にエンデを全肯定することに危機感も覚えていた私はエンデを超えなくてはとも思っていた。エンデと同じだけのものを見て、それに加えてエンデが見られなかったものも見てやろうと。青年期の青臭い感じで思い出すとちょっと恥ずかしい。でもそんなあの頃の自分が結構好きだったりもする。


エンデ自身も、「ブレヒトを克服するのに苦労した」というようなことを言っている(『芸術と政治をめぐる対話』)。エンデにとってのブレヒトと私にとってのエンデは多分一緒ではないが、なんとなく重ねてしまっているかもしれない。


今年に入ってからも『はてしない物語』を読み返したりしているが、今読むとやはり昔とは違う視点で読めているなと感じることがある。私はエンデにはなれないしならない、「超える」なんてこともないが、私なりに私としてエンデ作品と今後も向き合っていきたいなと思う。エンデと格闘しようとするのではなく、もっと素直に。エンデにとっての物語もそもそもそういうもののはずだ。