つかのま。

読書と日々考えたこと

アゼルバイジャンと世界の解像度

アゼルバイジャンアルメニアの戦争が始まったと、Twitterで知った。
news.yahoo.co.jp

その戦闘にはイスラエル製の兵器が使われているらしい。今日はドレフュス事件でドレフュスが特赦により解放された日だとWikipediaの「今日は何の日」で知った直後だった。
ja.wikipedia.org

そしてそもそもドレフュス事件が目に留まったのは、本当に偶々、今読んでいる本がこれだったから。

なぜこんな本を読んでいたのかはこの本の感想記事を書くときに置いておくが、本当に偶然だった。


運命的なつながりの感傷を感じることは簡単だが、これは私が「気づくようになった」に過ぎないのだと思う。実際、アゼルバイジャンアルメニアの対立自体は今に始まったことではなくて、私がただ知らなかった・ニュースを見かけても受け流してしまっていたに過ぎない。今回偶々読んでいた本やいろんなことが玉突きのように繋がって、強烈に意識させられただけだ。


小中学生の頃、世界のどこかで治安が悪化したとか、暴動が起きたとか、戦闘になったとか、そういった報に触れたときにきまって「あぁ、“もう”気軽にはいけなくなってしまった」と思っていたことを思い出した。当時はエジプトやギリシャの歴史や神話に興味があって、いつか大人になったら行くんだと思っていたから、もう行けないかもなぁと暢気に悲しんでいたわけだ。でもその頃よりは幾ばくか知識がついた今思えば、それらの事件はあの日突然起こったのではなく、元々そこに問題はあった訳で。ニュースやらなにやらでそれまでにも触れていただろうけど、理解するにはまだ幼かった。せめてそれらのニュースを認識できる程度に成長していたのがその事件のタイミングだったということ。


先日読んだ出口治明の『本の「使い方」』では、「教養」を「思考の材料となる情報を身につけること」としている(25ページあたり)。そして教養を身につけるのに有効なのが読書だと。『イスラエルを知るための62章』の場合は直接的な知識と関連情報の連鎖の一端になっていたが、改めて「知ること」について思った。