つかのま。

読書と日々考えたこと

スティーブン・クラッシェン『読書はパワー』

近畿大学通信教育学部司書課程の『児童サービス論』テキストで紹介されていた本。「クラッシェン」の名前に見覚えがあるな、と思っていたら、第二言語習得論のあのクラッシェンそのひとだった。大学時代に学んでいた言語学とリンクして、なんだか嬉しい。




「自由読書」の意義について、多数の研究を元にまとめている本。学術書的な性格の強い本で、参考文献リストもかなり充実している。読書教育の理論的裏付けのナビゲーターとしても良さそう(流石に出版年は古めですが)。読書科学というジャンルにも興味が湧いた。




この、「自由読書」という言葉に出会えたのは、司書課程を履修して良かったと思えたことの一つになっている。当たり前のようにやっていたことだけれど、その自由な読書が意義のあるもので、こうやって研究もされて効果が認められているとわかると、自分の読書が間違っていなかったのだと思える。




自分で言うのもなんだが、私は大学受験までの一連の学校教育で、少なくとも読み書き等の面で困ったことはなかったし、全体的に成績も良い方だった(数学は壊滅的だったけれど…)。学校の勉強自体はあまり熱心な方ではなかったので「勉強してて偉い」などと言われると反応に困っていたが、多分大量に本を読んでいたのが土台になっているのだと思う。ジャンル問わず読んでいたため、直接的にいわゆる「知識の本」にも触れていたが、一番読んでいたのは物語の本だ。知識そのものを本から学んだわけではなくとも確実に糧になっていると感じる。「役に立つ本を読みなさい」と言われることに対するモヤモヤ感も多分そこに起因している。




漫画やティーンロマンスといった「軽読書」についても論じているところが良い。感覚的な話ではなくしっかりとデータに基づいた上で、それだけでは読書体験として十分ではないにしても「自由読書」への橋渡しとしては意義がある、と結論づけている。私は本に限らず、どんな知識や技術に対しても「これは高尚/低俗」などとランク付けするのが好きではない。この本ではあくまで漫画やティーンロマンスは区別されてはいるのだけど、意義があるものだと数字で語られているのが嬉しい。




「書くこと」について、その意義を「自分の考えを明確にし、刺激を得るため」と述べている。私がこのブログを始めるに至った理由にも通じると思った。私はこのブログを自分の脳みその整理のために書いている。ふわふわと流れていってしまいそうな断片を捕まえて、文字に固定している。それを外側から読む。昨日読んだ若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』にも、「書くことは自分を理解すること」と言う旨の記述があったが、その通りだと感じる。このブログは、今のところほとんど読み直さずに、思いつくまま書いている。追々修正したくなるかも知れないが、そのときはしれっと手を入れて書き直せるのが、自分の城たるブログの良いところ。そのあたりについては「わたしがブログを書く理由」のテーマで書いてみたい(そちらはきちんと推敲もしたい)。量を書くことは文章の上達にそれほど影響がないとのことなので、まぁ気ままに書いていこう。




現在は絶版となっている本のようだけど、重要な本なのではないかと思う。文庫本等の形で復刊されると良いのだけど。