つかのま。

読書と日々考えたこと

墨香銅臭『魔道祖師』

先日の台湾旅行後からガツンと来ている魔道祖師。ようやく原作日本語版を番外集まで含めた全編読了したので、アニメ・ドラマ陳情令含めて感想を書いておきたい。

感想なので思いっきりネタバレしますが、この作品は前情報無しで初読するのが楽しかろうと思うので、これから作品に触れる予定の方は回避推奨です。ちなみに初見におすすめなのはやっぱり原作小説だなという所感です。原作を読もう。



古代中国モチーフの中華ファンタジーBL小説。
こういう世界観は元々好きなので、多分この作品も好みだろうな…という気配はずっと感じつつ、きっかけがなくて触れてこなかったのが、今回旅行をきっかけに見始めたら案の定相当好みだった、という流れ。

履修順はアニメ(Q含む)→陳情令(乱魄・生魂含む)→原作小説。この間約1ヶ月。ラジドラも聞きたさがありますがまだ日本語版は完結してない?ぽく手が出しにくい。

アニメ初見時には全然キャラが覚えられず…。みんな名前が3つくらいあるし(名・字・号・愛称敬称…)、姓は被りまくってる上に名前も似てるし(子淵、子軒、子勲、子真、子琛????)、服も似てるし…?例えば思追と景儀、正直初見時にはだいぶ後半までどっちがどっちか覚えられなかった。

乗り越えるためにネット上で相関図やキャラ紹介をチラチラ確認しながら見ていて、おかげで鬼腕の正体や黒幕についてネタバレを踏んでしまい。特に黒幕のことに驚いてどゆこと???と思いながら一気見をしてしまったのである意味良かったではあるんだけど、もったいなかったな〜!と思う。お試し感覚でアニメ見るのではなく原作小説を一番最初に読むべきだった。

各媒体の中ではやっぱり一番原作小説が面白く、かつわかりやすい印象を受けた。元々BL小説なのをメディアミックスだと要素排除されてしまうからというのも大きいと思うけど、それにあわせた(?)再構成でわかりにくくなってる感じ。

特に大きい変更が、ストーリーの構成だ。
原作だとあくまでメインは現代軸で、その流れに合わせて回想等で過去のシーンが描かれるという構成。過去軸(座学〜乱葬崗)は細切れに明かされ、現代軸での魏無羨と藍忘機の状況・関係とリンクしている様がわかりやすい。特に金鱗台から二人で逃げるシーンと重なる過去のドン底一人ぼっち状態は胸熱。そして過去と今の対比に感動してたあとに知らされる忘機の戒鞭の理由…。

一方で、アニメと陳情令では過去軸をまとめて展開している。わかりやすくするためなのかなぁ?とも思うけれども、正直この構成変更が物語をわかりにくくしてるんでは?という気がする。

ひとつには、現代軸での事件の流れが途切れてしまうのがわかりにくい。

この物語のアクション面での目的は「事件の発端になった鬼腕の正体と下手人を突き止める」なのだが、この正体探しがいよいよ始まったぞという大梵山後に一気に過去編をやってしまうので、過去編が終わる頃には現代軸で何やってたんだっけ?になってしまう。ちなみにアニメだと1クール分くらい過去編をやり続けている。

しかも、この過去編で出てくるメインの敵・温氏は現代軸ではほぼ絡んでこない。逆に、本編のメインの敵である金光瑶は過去編にほぼいない(陳情令はここはうまくやっていて、孟瑶の聶氏所属時期を早める・主人公たちを過去で清河に寄らせるをやっている)。原作だと金光瑶の名前は最初の方からずっと出ているし、本人の登場もそんなに後ろの印象はないタイミングだ。

現代軸に戻ってもまだこれから祭刀堂…という段階なので、原作だと効果的だった過去と現代の重ね合わせが途切れてしまうのがもったいない。話数がかなり進んだ状態で初登場になる義城組や欧陽子真も急にここに来て新キャラが!?感がある(特に暁星塵と宋嵐の眼のやりとりはまんま魏無羨と江澄の金丹のやり取りなので、どこに置くかで結構印象が変わる)。

過去編でみても、過去編内の時間間隔がわかりにくいというのもある。座学〜乱葬崗で原作では実は7年くらいの幅があるわけだけど、ぶっ通しで過去編を見ているとその感覚がいまいちわからなかったりする。原作は細切れなので時系列が連続してないことを理解しやすい。



原作では過去編が忘羨の関係値を深堀りするためのBLの軸になっているのに対して、BL要素がかなり抜かれているメディアミックスだとそこも有耶無耶になってしまい、大河要素にかなり寄ることになる…のだが、大河要素にするときにもこの過去編・現代編問題は大きい。過去編での事件と現代編での事件のつながりが結構弱いのだ。

現代編での事件は、過去編(〜乱葬崗)の直接的な延長ではない。直接の発端は「聶明玦の死」であり、乱葬崗から少したった、とっくに魏無羨が死んでる間の出来事だ。

もちろん金光瑶の問題はそれ以前から始まっていて、金子軒の死の件など魏無羨たちの過去編と全く無関係というわけでもないのだが(こここでも陳情令は比較的頑張っている)、現代編での事件の始まりである「莫玄羽の献舎と鬼腕の投げ込み」を聶懐桑が引き起こす動機はあきらかに兄の死だ。赤鋒尊が死ななければ懐桑はあんなことをせず、魏無羨は蘇らず、忘羨が結ばれる事もなかった。

つまり、忘羨の過去編を1クール見たところで現代の事件解決にはあんまり役に立たない。多分鬼腕の事件のことだけ追いたかったら、いっそ過去編をすっ飛ばして祭刀堂に行ったほうがわかりやすい。もちろんそうすると感情面でのストーリーの流れはちんぷんかんぷんになるが、そうなったときに原作と同じように細切れで過去編を見るのがわかりやすい…と思う。大河ドラマのつもりで見るなら、逆に過去編まとめてみたあとに第一話に戻るのがシンプル。ただし現代と過去のギャップでの面白みは激減。



現代の事件については探偵ものみたいな作りになっている。

忘羨二人が探偵役。匿名の依頼人が聶懐桑、身元不明の被害者が聶明玦、犯人が金光瑶のバラバラ殺人ミステリーだ。

探偵は依頼を受けたから事件に関わっているのであって、本人たちが被害者・犯人に直接因縁があるわけではない。

この鬼腕事件と並行して展開されるのが、忘羨二人の内面的な事件解決ストーリー。主な謎は藍忘機が大梵山で気付いた理由、戒鞭の理由、そしてどうしてそんなに魏嬰に執着してるのか。そのさらに副次的なストーリーとしての江澄・金凌との関係性。これらは過去編に直結する話。

アニメで見ていたときにはこの二つの事件の繋がらなさにただ首を傾げていたが、陳情令を見た際にはオリジナル要素『陰鉄』の設定や金光瑶への悪事の集約具合で比較的繋がりを感じて、うまく改変してるのかなと思った。

が、しかし。原作を読むに、この『因縁のなさ』も意図的で重要な要素だったと感じている。

原作の『因縁のなさ』で特に印象的なのが、窮奇道での金子勲・金子軒殺害に関する蘇渉の関わり合いだ。特に金子軒殺害は最悪に取り返しがつかない事態を招いたが、その原因である金子勲への千瘡百孔はあくまで影薄めサブキャラ蘇渉の個人的な恨みの発露でしかない。それを明かす蘇渉はどこか誇らしげな印象ですらあり。世界は主人公たちのためだけに回っているのではない。

みんなそんなものなのだ。実際のところ、すべてが誰か個人のせいでも、誰か個人のおかげでもない。事情は複雑に絡み合って、誰にその責任を押し付ければいいのかもわからない。便利な押し付け先がときには夷陵老祖であり、ときには金光瑶であり。もう誰も素直に恨めなくなってしまった金凌の描写がグッとくる。みんな少しずつ責任があるはずなのに、知れば知るほどもう誰も恨めない。

『知る』ことも印象深く描かれていた。
大衆は何も知らず無責任に噂する。大義にすがって安心する。
聶懐桑は昔は本当に何も知らなかった。やがて一問三不知で金光瑶すら欺いた。
江澄は金丹の真実を知らなかった。知ったことで少し前に進んだ。
藍曦臣は金光瑶のことも、聶懐桑のこともわからなくなった。
魏無羨は藍忘機が自分にどんな感情を抱いているのか知らなかった。

(そういえば「まだはっきりしないから話さない」という態度も探偵役っぽいねと今思いました)



江澄の話。
江澄は金丹のことを知ったときに「なぜ俺に言わなかった」と泣いて、最後は自分が温氏に捕まったのはお前を守ろうとしたからだ、と言おうとしたのを飲み込んだ。これでおあいこ。

魏無羨は江澄のために身をさらして買い物に行って、それを江澄が助けようとして捕まって、その結果失った金丹を魏無羨が譲って、そのせいで鬼道に走ることになって、でも鬼道のおかげで江氏は勢力を回復して…因果はぐるぐる回り続ける。もう何に対して誰が借りがあるのかなんてわからないくらいに。

アニメだとよりによって金丹の件が観音廟の「あと」に挿入されているので初見時には江澄のやるせなさにどうして…と思ったが、原作だときちんと観音廟で陳情の受け渡し等を通じて「すまない」「ありがとう」も描かれていたので安心した。アニメはどうしてああいう構成にしたんだろう…。

「すまない」「ありがとう」の印象的な交換のあと、忘羨二人で「俺たちの間にはその言葉は不要」をやるのが見事だった。



総じて、様々な立場、思いが絡み合う内面描写がすごく好みな作品だった。同作者の天官賜福も読んでみようかなと思っているし、何より中国語で読むのを目標にしようと思っている。