つかのま。

読書と日々考えたこと

たつみや章『月神の統べる森で』

この第1巻から、外伝『裔を継ぐ者』までの全5巻を一気に読了。2024年の読書はじめとした。

縄文と弥生のはざまを描く和製ファンタジー
独特の空気感ある文体と世界観、東逸子の美しいイラストとそれを際立たせる装丁、内容はもちろん本の形もすべてが素敵な本だなぁと思うシリーズ。

これまでに何度も何度も読み返してきた大事な本でもある。『さやかに星はきらめき』の記事でも少し書いたが、もし人生の中で大事な本をあげよと言われたら、この月神シリーズを外すわけにはいかない。
今までは図書館で都度借りて読んでいたけれど、ついに中古で自分で揃えた。児童書はターゲット読者だった頃には自由に使えるお金がないから買いそろえられなくて、大人になって自由にお金が使えるようになった頃には新品で手に入れるのが困難になっていたりする。大事な本だからこそ節目に買いたいだとか、ネットの中古本は状態が心配だとかでずるずる引き延ばしてしまっていたが、2023年は節目の年だったし、ということでえいやっと全巻一気に買いそろえた。このシリーズが手元にあって、いつでも読み返せて、確認できるようになったというのは自分の中でとてもとても大きいことだ。

最初に読んだのは、記憶は曖昧だがおそらく小学3年生前後。学校図書館でタイトルと表紙に惹かれて手に取った記憶がある。当時は縄文だとか弥生だとかもよく分かっていなかったと思うので、そういった時代物的な感覚はあまりなく、単にファンタジーとして読んでいたはず。
倫理観の土台形成過程といった頃合いに直撃したこともあり、思想的にかなりの影響を受けた実感がある。読んでしばらくは、何を食べるにしても、水を飲むにも、コンロの火を付けたり戸口から出たりする日常動作のひとつひとつにも祈りと感謝を心の内で唱えたくなる。今回も、改めて読み返してそんな気持ちになっている。自分の中でものすごく深く刺さりこんでいるなぁと感じる。

印象深い教えはたくさんある。

例えば『天地のはざま』での交易参加者を決めるクジ引きの話。ポイシュマが、ムラ生まれではない自分とワカヒコがあたりを引いてしまったことについての申し訳なさをアテルイに相談するところ。

「では、たとえば、クジで外れたことが、その者への『旅に出てはいけない』という知らせだった場合はどうだ?」
(『天地のはざま』p.12)

物事には表があれば裏もあるのだから、一面だけ見ていてはいけない、という教えを諭すアテルイ
この考え方がかなりしっくりきていて、何か「運が悪いなぁ」と感じてしまうときには、逆に「あたっていたらよくなかったのかも」と思うようにしている。最近だと、『さやかに星はきらめき』の一般読者のゲラ読み募集に応募したのだけど抽選で漏れてしまっていた。でも実は当たっていたらちょうど日程的に司書の試験に影響がありそうだったので、むしろ外れたおかげで集中して取り組めということなんだろうなと切り替えた。結果落ちてるわけだけど、あそこでゲラ読みが当たって読んでしまっていたらそのことに落ちた原因をなすりつけたくなってしまっていたかもしれないし、あの本についての記事で書いたような読書体験には絶対なっていなかったと思う。はずれてよかった抽選の一つ。司書の試験で落ちてしまったことも、自分の性格的に薄々向いてないよなぁと思ってた節もあったので、「お前はなるべきではないよ」ということかなぁ、と受け止めたりもしている。

他にも沢山。よく知りもしないことを最初から悪い方向に考えてはいけないだとか、悪い想像を口にしてはいけないだとか。細かくあげたらきりがないくらいにたくさんある。

今回読み直していて特に感じたのは、根底を貫くような「知る、そして何が正しいか考えて、そうあろうと自ら決める」考え方だった。
この作品ではムラ対クニが描かれていて、一見ムラ側が圧倒的に正しいようにも見えるのだが、ムラの民も生まれながらに正しくあれるわけではない。それは『月神の統べる森で』で(後々振り返るように)最初から文句を言うような気持ちでヒメカに臨んでしまった長たち、『地の掟 月のまなざし』で災厄への恐れからポイシュマを拒否しようとしてしまったり恨みをヒメカの民にぶつけようとしてしまったムラ人たち、『天地のはざま』で恥をかかされたといってホムタをよってたかって足蹴にしてしまうポンヌペたち、アヤの実態を知らないまま知った気になっていたチェプモトたち、として描かれるだけでなく、成長していく過程のポイシュマも何度も間違うし、長の長アテルイさえも幼い頃に何度も過ちをおかしていたし、なんらなカムイのモナッレラすら、うぬぼれから罪を犯してしまう。

中でも特にアテルイだ。
アテルイは考え深い立派な長だが、持って生まれた素質はどちらかというと勇猛タイプ。幼い頃は親の言うことを聞かずに罠に落ちて大けがをしたり、自分の強さに驕ったり、その果てに自らの過ちで父親を死なせてしまったりする。この父を失ったときのエピソードが好き(『月冠の巫王』)。「おれは父を失ったが、ムラからは長を奪った」と気がつくところ。シクイルケが示した「償い」は父親の仇を討つことではなく、ムラから奪ってしまった思慮深い長の跡を継ぐことだった。アテルイは元々立派な男だったのではなく、自らそう在ろうとして謙虚に耳を傾け、知り、考えて選んでいる。
シクイルケを失ったときもそう。深い深い悲しみ、やるせなさ、無力感、ヒメカの民への恨み、憤り。それらの暗い感情は大いにあって、その中で三日三晩必死に考えて、飲み込んで、ムラの長として、シクイルケの願いを聞いた者として、自分が選ぶ道を選び抜いた。それもすぐに出来たわけではなくて、ポイシュマの悲しみもフォローしてやれなかったほどだけど。


記録を振り返る限りでの前回の読み直しは2018年だった。
高校生付近のころから大学生にかけては、私はこのシリーズを読む度に執拗にホムタのことを考えていた。タヂシヒコのようなラスボス級の非道にもなれず(タヂシヒコも実質的にはラスボスでもない気もするが)、かといってオシワたちほどの小物でもなく、オシホミたちほど柔軟でもなく、ワカヒコやヤタカやユツのようにムラに順応も出来なかった、どうしようもなかった男。
このプライドが高くてどうしようもなく自分を変えられなかった男に妙に執着してしまって、その理由を探る内に自分を重ねてしまったりしていた。実際、あの頃の私は「変わる」ことがものすごく怖かったから、変われなかったホムタをある意味同族として擁護してやりたかったんだと思う。当時書いたホムタについての感想文を見ると、必死にそれをつかもうとしていて懐かしかったし、いっそ可愛かった。
あの頃は本当に怖かった。何が怖かったんだろうと今となってはわからなくなってしまっていたりもするんだけど、例えば県内各地出身のクラスメートに囲まれていることで自分の訛りがわからなくなってしまったりしていたのがもうひどく怖かった。
今読み返してみると、ホムタはやっぱり気になるし、こいつは悪だと言い切るのにはモヤモヤするけど、以前ほどのどうしようもない執着は感じない自分がいた。ほかにもサザレヒコにも同族嫌悪だか今日完成周知だかの類いの感情を覚えて『裔を継ぐ者』に近づき難かった時期もあったのだけど、今はもうそれもなかった。その変化が少し嬉しい。
今の私は、もっと素直に「アテルイのようでありたい」と思えている。自分は駄目なところが多い人間だとわかっているけど、それは幼い頃のアテルイだって同じ。よく知って、よく考えて、自分の取るべき正しい道を見つけようともがくことは私もやってもいいじゃないか。やってみてやっぱりうまくいかないかもしれないけれど、やってみるだけはできる。

そんな「やり直し」を許してくれる物語でもある。時は戻らないから、過ちを無かったことにするような「やり直し」ではないけれど、過去の過ちを背負うからこそその次に何をするべきか、を考える。アテルイの父は戻らないが、アテルイはその分思慮深い立派な長であろうとする。モナッレラの驕りの罪はなくならないが、償いのつもりの子育てはいつしか本物の愛になり、ポイシュマもそれを正しくゆるす。ゆるしは時を超えて癒やす。二度もオオモノヌシの力を憤りにまかせて振るってしまったポイシュマも、最後には左手に自ら戒めの証を刻んで前を向く。

つい長々と感傷的に書いてしまった。
今回の読み返しでは色々とこれまでと違う読み方ができたなと思うので内容読解の面でも書きたいのだけど、この記事はさすがにごちゃつきすぎているので、時間があればまた別のエントリーにまとめたい。ホムタの描写がやっぱりすごいのだという話やキリスト的なシクイルケの話や物語の構成面での好みの話だとか、いろいろしたい。いつでもできる、だってもうこの本は私の手元にあるのだから。

2023年を振り返る

このブログをはじめて初めての大晦日ということで、今年の振り返りを書いておこうと思う。

先日の『さやかに星はきらめき』のエントリーにも書いたが、今年は区切りだったり、喉に刺さり続けていた小骨と向き合ってみたりした一年だった。
正確には2022年からが自分なりに少しばかり変われた時期だったなあと思う。ので、22年分から振り返る。これは私のブログだから何をしてもいい。

2022年、司書過程の履修をはじめた。元々ずっと資格をとっておきたかったという小骨があったのに加えて、前年に会社で色々と考えたくなることがあって、転職してやろうという気持ちもあって踏ん切りがついた。
ただ、22年中は実はレポートを一本も出せなかった。教科書は一通り一気に読んだものの、いざレポートに着手しようとすると一文字も書けなくて手が止まってしまった。
元々学生時代からレポートには結構苦手意識があって、卒論なんかは提出日に徹夜して最終章かいてそのまま提出したな…というのを思い出してしまったり。それで余計に苦手だ~と思ってしまって書けなかった。
ぐだぐだしているうちにフルート教室での演奏会の作業が入ってしまったり、仕事でも重めの担当を割り振られてしまってワタワタしたり…しつつ、趣味の方面でははじめて二次創作の小説同人誌を作ったりしていた。
正直完全に逃避だったわけだけど、ストーリー創作術の本を読んだりしてちょっとばかし「本気」で何かをやってみたきっかけになったし、昔はそれこそ小説家になりたかったことだってあったよねと思い出してもいた。

2023年に入ってからは学籍延長をして、これ以上あとがないぞと自分を追い込みつつ司書に本腰を入れた。
あんなに書けなかったレポートだけど、22年中に同人誌で何万字か小説を書いたおかげで、たかだか2,000字がなんぼのもんじゃい、と、比較的ふっきれて取りかかれるようになっていた。
年初時点ではまだ本格的に採用試験を受けるつもりはなかったのだけど、勉強している内にやはり一度は試験を受けておきたいよな…と思って募集要項を確認。4月ぐらいに第一志望の図書館が今年ラストチャンスだと気がつき、そこからはとにかくがむしゃらにやった。

夏までには通信指導科目を全単位取得。計画が甘くてメディア授業は後期一発勝負になってしまった。夏から秋にかけては公務員試験の勉強。仕事も忙しいタイミングが重なってしまって結構キツかったけど、その分出来るだけのことは全部出来たと思っている。

秋にはこのブログを始めた。ちょうど一次試験が終わった日に開設した。TwitterがXになってしまったり、とてもとても使いにくくなってしまっていたりする状況に辟易とした一年でもあった。この辺の話も9月頃のブログに書いた。Twitter以外の居場所を確保したいなぁとは思っていたことだったから、これも又一つの区切りときっかけになった。

また、秋にはフルート教室の大きめの演奏会があった。実はこれの作業で春~秋の毎週末最低3時間/日が実質消えていた。それでも夏頃からは公務員試験を受けるので…とカミングアウトして関連作業を回避してはいた訳だけど、逆にややこしい事態になっていたりしてなかなか大変だった。こればかりは二度とやりたくない。やるとしたらもっとシステマチックにうまくやらせてほしい。

楽器と言えば、YAMAHAのデジタルサックスYDS-150を春に買った。最近あまり吹けてないけど…。小中高の吹奏楽部時代はサックスを吹いていた。ずっとマイ楽器はほしかったけど、SATB全種ほしくなっちゃうよなぁとか、リード等の消耗品のランニングコストが結構キツいんだよなぁとか、色々と考えると購入に踏み切れなかったので、これも結構ひとつの区切り。もちろんようはウィンドシンセなので本物の管楽器とは勝手は違うわけだけど、手に持ったときのしっくりする感じには泣きそうになった。来年はもっと吹いてあげたいし、楽器の話はまた別のエントリーで書きたい。

読書面でも大きな区切りでもあった。村山早紀作品とのことについては『さやかに星はきらめき』のエントリーで書いた通り。それ以外にも、たつみや章の『月神の統べる森で』シリーズをついに中古で買った。これは私の価値観に間違いなく影響を与えているシリーズで、常に手元で内容を振り返れるようになったのは非常に大きい。来年の読書一発目はこのシリーズにしようと思っているので、改めて書きます。

今年は何かと聖書に縁がある年だった。秋頃に聖書を買ったのは過去にも書いたとおり。これも来年は通読を試してみようと思っている。それ以外にも、大学時代の延長でヘブライ語の文法書を買い、その流れでイスラエルについての本を読んでいた直後にガザでの事態が発生した。本当にたまたまなのだけど、あまりにものタイミングに余計にショックが大きい。実はウクライナにも学生時代に(研修旅行だけど)行ったことがあったので、このショックもある意味22年から続いている。年末付近に読んだ本のうち『大学教授のように小説を読む方法』『ネシャン・サーガ』『さやかに星はきらめき』も聖書(もしくはキリスト教)を知りたくなる本たちだった。

年末には英語多読を始めた。今のところ順調に続けている。来年もこのまま続けて、まずは100万語、そして『盗神伝』原著読破を目指したい。その後はブラッドベリも…とか、色々と夢は広がる。

来年もいっぱいやりたいことがある。
もうひとつだけ公務員試験にチャレンジしたい区分がある。
聖書を通読したい。
盗神伝をどうにか読破したい。
その他にももっと読みたい本がある。
司書過程を無事に終えたら、放送大学などの別の通信教育にも手を出したい。
音楽ももっときちんとレベルアップしたい。
小説を書き上げたい。
部屋の掃除をもっとこまめにしたい。

一気にあれもこれもやりたくなって結局何もできなくなるのが自分の悪い癖だと自覚もできたことだし、無茶はせずにひとつずつしっかり進めていきたい。

英語多読を始めた

最近、ふと思い立って英語多読を始めた。

目標はメーガン・ウェイレン・ターナー『盗神伝』シリーズを原書で読めるようになること。
このシリーズ大好きなのだが、4巻以降が未邦訳で読めていない。今後も正直邦訳される気がしないので、自分で読もうという算段だ。

すでに何年か前にKindleで1巻から英語版を買い始めているのだけど、読もうとすると英語力のなさを痛感してしまってなかなか読めない。日本語で一度読んで内容を把握しているからなんとなくページをめくってしまっているが、ぶっちゃけ読めている感覚はない。

古代ギリシャ風ファンタジーだからそもそも知らない単語がバシバシ出てくるのはしょうがないとして、一般的っぽい単語も全然わからず、1から出直してこよう…と多読用の本からはじめることにした。多読の効用についてはクラッシェン『読書はパワー』で触れていたし、いい機会だと思って。

思えば、日本語でも例えば馬具の『鐙』なんてどこで覚えたか記憶にないのにあああれのことね、とイメージできてしまうわけで。母語の経験的にも読書で語彙力つけるのはすごく納得できる。

今読んでいるのはいわゆるPenguinリーダーズのレベル1-2程度。図書館に結構種類があるので片っ端から読んでいる。

英米文学の名作のretold版が特に楽しい。直近だとナサニエル・ホーソーンの『七破風の屋敷』を読んだ。ホーソーンの作品はこれまで読んだことがなかったけれど名前はよく見かける人だ…程度の認識はあって、その作品に英語で触れられてるんだなぁと思うとモチベーションもあがった。retoldだからもはや別作品ではあるんだけど(しかも『七破風の屋敷』は多分retoldがあまり良くないのかよくわからない感じになっていた)。日本語版でも読んでみようかなと作品として気になったし、いつか原書を英語で読んだら感慨もひとしおだろうなぁとも思った。

簡単なレベルからはじめてることもあり、一冊読むごとに小さな達成感があるのも良い。自己肯定感があがる。
無理なく自分のペースでコツコツ読みすすめたい。

村山早紀『さやかに星はきらめき』

人生の最適なタイミングで読めたな、と思える本は大切な本になる。これまでだと例えばレイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』を子どもと大人の境目の気分だった高校生頃に読めたのがとても良かった。
この『さやかに星はきらめき』も、今年、このクリスマスに読めてとても良かった。

人類が地球に住めなくなった未来、旧来の人類、猫や犬が進化したネコビト・イヌビトや地底のトリビト、新しい隣人の異星人たちがともにくらす宇宙。『人類すべてへの贈り物となる本』のために集められたクリスマスの民話を巡る短編連作集。発売直後に買ってはいたものの、今日まで読まずにとっていた。
主人公のネコビト編集長・キャサリンをはじめ、本や物語に関わる人たちの愛と願いと祈りのお話。


クリスマスイブだから今日読んで良かった、というだけでなく、多分“今年”じゃなきゃ読めなかったなぁ、と思った。

今年一年を振り返る記事は年末に書こうと思っていたけど、今年は自分の中でちょっとした区切りになるような年だった。
これまで自分で見ないふりをしてきたことや色々言い訳して逃げてきたことにしがみつき直してみて、いくらかマシな自分になりたくて色々とやってみた。
このブログを始めたのもその一環。

そして、実は公立図書館の採用試験を受けていた。
通信の司書課程を始めたときには「とりあえず資格をとっておくだけ」なんて自分にも言い訳してたけど、勉強していくうちに、図書館にまた通えるようになっていくうちに、やっぱりここで働きたいと思ってしまった。ずっと諦めていたけど本当は昔からの夢だった。
受験を決めてから約半年、これまでの人生で多分一番頑張ったけれど、駄目だった。
結果発表は今月中旬だった。ブログをしばらく書けなかったのも結果を飲み込むまでに少しかかったから。

この自治体は年齢制限の都合で今年が最後のチャンスだった。他にも受けられる自治体はあるのだろうけど司書として働けるならどこの自治体でもいいわけではなかった。
行政職で合格したとして短期間での異動が基本なのも知っていた。
自分の人生設計を考えるとやっぱり非正規雇用の道は選べなかった。
だから、今回の不合格で「公立図書館の正規職員司書になる」道は私の中ではもう“不可能なこと”になった。今度こそ本当に、客観的事実として。

本気でなりたかったから不合格でボロボロ泣いてしまったけど、同時にすっきり割り切れてもいる。この半年は本気だったから。
これまではチャレンジすらせず「やったらほんとはできるかも」の可能性を残してすがってきたけど、最終面接まで残って、これ以上は出来なかったと言うくらいにきちんとやって駄目だったから、薄々感じてはいた自分の適性のなさ・相性の悪さを実感して、受け止められた。
落ちたら図書館や本からまた逃げたくなってしまうのではないかと怖かったけど、そんなことにはならなかったので安心してもいる。

『さやかに星はきらめき』には本や物語、出版社や書店、そして図書館をとりまく人たちの愛が溢れている。多分、司書にチャレンジもしないまま小骨を喉に引っかけ続けていた状態だったら、この本は苦しくて読めなかった。だから今年じゃなきゃだめだった。今年だったから、素直に月面都市の中央図書館に行ってみたいなぁと思えた。本や物語のもつ力に実感を込めて頷きながら読めた。


それと、実はここ数年、村山早紀作品を読むのが怖かった。あまりにも眩しくて暖かかったので。
元々『シェーラひめのぼうけん』や『魔法少女マリリン』シリーズ、『はるかな空の東』が大好き。特にシェーラは本当に大事な本で、愛蔵版がでたのが本当に嬉しい。はる空も文庫化・書き下ろしがとても嬉しかった。他にもやまんば娘(海馬亭)、人魚亭、ちいさいえりちゃん、学校図書館にあった本は片っ端から読んでいた。
でも、一時期読めなくなっていた。きっかけは高校の頃、『コンビニたそがれ堂』が学校図書館にあるのを見つけて読んだ時。すごく素敵な物語だと思った。優しくて暖かくて強さがあって、「あぁ、私はこの人達のようには生きられてないなぁ」と思ってしまって、少し苦しくなってしまった。好きな作家さんの作品を読んで苦しくなるのが怖くて、避けてしまった。
そんな汚い自分が嫌なら変わる努力をすれば良かったのだけど、それが出来なかった。この辺の話は近々読み返そうと思っているたつみや章月神の統べる森で』の記事を書くときにまとめようと思けど、同作のホムタなんかに自分を重ねてグズグズになってた頃だった。ちょっと健全じゃなかった。

しかし、今年一年自分なりに足掻いてみて、少しでもマシな自分になろうとしてみて、ちょうど採用試験の結果が出る頃にこの本が発売されると知って、「今なら読めるのかも」という手応えがあった。
「司書になれたら読めるのかも」とも思ってしまっていたが、そんなことはなくて、不合格でもちゃんと読めた。
これもまた、自分の中でのひとつの区切りで、読めたことが本当に嬉しい。ほっとしている。ちなみに月神でもホムタに自分を重ねるよりも素直にアテルイらのように生きたいなと思えるようになっているのを実感している。


そんなこんなな読み方をしていたから、余計に最終章の「いつかより善き者になりなさい」という言葉にワンワン泣いてしまった。
私も優しいお話を読んでもよいのだと思った。今はまだそうでなくても、せめてそのように在ろうとしてもよいのだと思った。
赦しの物語、ああ『クリスマス』のお話だ、と思った。


優しいお話だが、決して都合の良い世界ではない。
人間は住めなくなるくらい地球を滅茶苦茶にしてしまったし、イヌ・ネコビトたちの進化過程での偏見や差別もあった。植民惑星の厳しさも、地下に生きる『わけあり』の人たちもいる。故郷を失ったリーリヤは神を信じないと言う。
世界は都合良くなどないが、奇跡も神秘もないかもしれないが、ひとの願いや祈りは世界を変えうる。物語となって誰かに届く。
少し前の記事で書いたけど、そういえば本気でサンタさんへの手紙に「世界が平和になりますように」なんて書いてた子どもだったなあと、改めて思い出したりして。
疫病も戦争もすぐ近くにある今、ベツレヘムでのクリスマス行事が中止になったりするような今。今年のクリスマスに読めて本当に善かったと思った。

ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ(9)裁き司 最後の戦い』(コンパクト版)

1巻を読み終えたのが10月頭だから、約2ヶ月かけて読み終えた形になる。年末までかかるペースかと思いきや最後の方は一気読みしてしまった。


改めて、聖書が深く絡んでいる本だったのだなぁと感慨を覚えた。昔読んでた頃には多分ほとんどわかっていなかったと思う。これが(おそらく聖書にあまり馴染みがないほうが多い)日本の小中学生に長らく読まれている作品だというのがすごい。結構な図書館にいまだにある本という印象で。


現役(?)で読んでいた頃より、今はかなり知識は増えてきたほうだと思う。たまたま今年はようやく聖書を手に入れていて、気になる箇所をチラッと参照しながら読むということもできたりする環境だった。

たまたまといえば『大学教授のように小説を読む方法』を直近読んでいたこともあって、ヨナタン/ジョナサンが漁師小屋や漁村で育ったことの意味が読めて、読みが深まった気がする。

もちろんまだまだ知識不足だらけだ。何なら〈裁き司〉がつまりは聖書の「士師」をもとにしたものであるというのは今回訳者あとがきを読んで初めて知った。「裁き司」の訳語を採用したのが独特のファンタジー的雰囲気を強めていて好きだ。



内容の話。
ジョナサンが地上を去るところで「そうだったー!」と思い出して少し立ち直れなかった。この物語はネシャンと地上が融合することがひとつのテーマなのでヨナタンとジョナサンがひとつになるのは当然といえば当然なのだが、ジョナサンが去ったあとの地上の様子にはどうしても寂しさを覚えてしまって。ジェイボック卿やサミュエルは穏やかだったけど、指輪物語の最後のビルボやエルフたちが中つ国を去るところのような寂しさが、どうしても…。

確か同じイーザウの『ミラート年代記』でも双子が融合するような展開だったと記憶しており(曖昧ですが)、イーザウの傾向だったりするんだろうか。


なぜ全能なる神が作ったのにこの世には悪があるのか?悪はあるが、人は自らの意志で選択ができる。それを妨げる・曇らせることこそがバール=ハッザトやメレヒ=アレスの悪である。


聖書・キリスト教的文化の中で育った人にはまた違った風な作品になっているのだろうか?改めて聖書をもう少しちゃんと読んでいきたいなと思った。

大串夏身『レファレンスと図書館:ある図書館司書の日記』

以前、小林昌樹『調べる技術』を読んだ際に紹介されていて気になっていた。図書館にあるのを見つけたので貸出。

1988年の東京都立中央図書館での一般参考係のレファレンス日記。昭和の終わり、電算機端末の利用が始まったころ。過渡期の時代を感じる記録で興味深かった。

今ちょうど通信の司書課程で情報サービス演習のメディア授業を受けているけど、なかなか独学の限界を感じる部分があり。リアルな現場を垣間見るとイメージが少し立体的になった気がする。当然ながら内容はものすごく古いので、これの現代版があれば読みたいところ。とりあえずレファ協データベースを眺めながら調べ方をトレースしてみたらよいのかな。同著者の「チャート式」のものも気になる。学生時代から文献調査に苦手意識があったのでこの機会に克服もしたい。

対談部分では現代のIT社会について触れられている。
エコーチェンバーやフィルターバブルの問題について。「知る自由」「表現の自由」が保障されているようでそうではない現代。最近twitterを見ていて色々と考えがちであり、ものすごく身近に感じながら読んだ。憲法的な価値を支えていくための社会装置としてのレファレンスと図書館。そういった形で働けたらすごくいいなぁと思う。

司書課程を勉強していて良かったことのひとつには社会教育・生涯学習施設としての図書館の考え方について触れられたことがある。「社会の役に立たなくちゃ」というのはある種の呪いでもあったけど、いざ楽だけど社会貢献度が見えにくい仕事に就いたらなんだかものすごくモヤモヤしてしまったりしていて、それも転職を考えるきっかけになった。仕事が好きじゃないからかなぁと思って好きを仕事にしてみようと司書課程をはじめたけれど、今は「好き」だけじゃない部分も含めて司書を仕事にしたいしもっともっと勉強したいと思っている。

沖縄県立博物館と文化講座「沖縄の美ら星~豊かな星文化にふれる~」

今日はほとんど一日中県立博物館にいた。
お目当ては博物館文化講座「沖縄の美ら星~豊かな星文化にふれる~」。
okimu.jp
先日行ったプラネタリウムでチラシを見かけて気になっていたのと、知人にも紹介されたので。

講座自体は午後の2時間ほどだけど、県立博物館自体がかなり久しぶりだったので午前から入って常設展示を見ていた。常設展示に入ったのもおそらく10年ぶりくらいになるはず。
ちょうど最近那覇市立歴史博物館の方にもふらっと行っていたので、琉球王国関係の展示は繋がる部分もあってより興味深く見れたように思う。(那覇市歴史博物館の方は首里から地方に移り住んだ士族の文書中心企画展示と玉冠の特別展示の時期だった)

10年前、南部の田舎の家から南部の田舎の学校に通っていた頃は、ごくごく狭い生活圏の外のことはどこも一纏めに「外のこと」だった。世界史を学ぶのも日本史を学ぶのも琉球・沖縄史を学ぶのもほとんど感覚的には変わらなかった。地元の市町村史を読むくらいのレベルでようやく「足下の歴史」を感じていたりした。
それが今は転居したのもあるけどだいぶ広い範囲を自分の地続きで感じられるようになっていると思った。大人になったなぁと思わなくもない。
最近那覇市内の図書館巡りをしていたときにも郷土資料コーナーを見て感じていたことだけど、「足下を知る」というのを地方自治体が支援してくれるのは重要なのだなと思う。

博物館に行くと、「もっと知りたい」と思うことが多い。展示物はごく一部だし、説明書きもあくまで短い文章だし。もっと知識があったらもっとわかることもあって面白いんだろうなぁと悔しくなったりする。古文書読めたら絶対楽しい。絣や紅型の知識ももっとあれば企画展ももっとよく見れただろうな。
司書課程の生涯学習論などで博物館にもちょっと触れているのもあって、生涯学習施設としての博物館をしみじみ感じた。
いくつか気になるテーマがあるのでまずは今度図書館で調べてみよう。適切な資料を見つけられるか自信がないが、なるほどこういうときにレファレンスサービスって便利なんだろうな、とも思った。情報サービス演習のつもりでやってみるつもりだ。


本題、お目当ての文化講座。
こちらも知らない話もたくさん知れて楽しかった。特に「ぱいがぶし(ケンタウルス座α、β星)」の説明は、先日のプラネタリウムでの民話紹介でちらっと登場していたが星名が特定できなかったもの(説明があったかも知れないが聞き逃していた)とつながってすっきりした。その時の民話も改めて紹介されていた(「星女房」の話だった。話の導入として「星の位置で農作業の時期を計っていた」という説明があったときに、画面上に意味ありげに映っていた2つの星のならびが多分ぱいがぶし=ケンタウルス座α、β星のことだった)。

「鹿川の三美螺」について。「寿星螺」は「寿星(カノープス)」が名前に含まれているのがおもしろい、という話で興味をそそられたが、帰ってからネットで少し調べてみると、和名の漢字は「寿聖螺」のパターンもあるらしい。
ジュセイラ | 美ら海生き物図鑑 | 沖縄美ら海水族館 - 沖縄の美ら海を、次の世代へ。-
コトバンク日外アソシエーツのものには星バージョンの見出しもあるので確かにある用法ではあるらしい。
寿星螺(ジュセイラ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
鹿川の、ではなく「日本三美螺」(吉良哲明氏)とされているそうだし、紀伊半島ぐらいまでは分布している種みたいだし、和名の由来などこの辺はもう少し調べた方がよさそう。これも図書館でも調べてみよう。
Microshells: Cymatium rubeculum ショウジョウラ 猩々螺

星にまつわる民話についての興味が強まった。元々ギリシャ神話系だけでは物足りなくて、世界の星の伝説が載っているような本も何冊か読んでいた。
こういう本とか。

今回の講座は八重山中心だったので、やはり私の「足下」感は薄かったというか、地元だとどうだろう?というのが気になった。でももうどれだけの人が“民話”として話を覚えているだろうか。少なくとも私は、星に興味があるはずの父からもその手の話を語り継がれたことがない。
民話等の口承文学を「語り継ぐこと」についても関心がある。図書館でのストーリーテリングもそうだし、エンデもそういったものを好んでいたので。
まずはこちらも図書館で関連資料を探してみる。
ちなみにこれはミュージアムショップで買った。博物館に行った後に図録や関連本を買うのが好き。


常設展も全部は見きれなかった。
来月にもおもしろそうな企画展等があるので、次は年間パスポートを買おうかなと検討している。
今後もこまめに行きたい。