つかのま。

読書と日々考えたこと

たつみや章『月神の統べる森で』

この第1巻から、外伝『裔を継ぐ者』までの全5巻を一気に読了。2024年の読書はじめとした。

縄文と弥生のはざまを描く和製ファンタジー
独特の空気感ある文体と世界観、東逸子の美しいイラストとそれを際立たせる装丁、内容はもちろん本の形もすべてが素敵な本だなぁと思うシリーズ。

これまでに何度も何度も読み返してきた大事な本でもある。『さやかに星はきらめき』の記事でも少し書いたが、もし人生の中で大事な本をあげよと言われたら、この月神シリーズを外すわけにはいかない。
今までは図書館で都度借りて読んでいたけれど、ついに中古で自分で揃えた。児童書はターゲット読者だった頃には自由に使えるお金がないから買いそろえられなくて、大人になって自由にお金が使えるようになった頃には新品で手に入れるのが困難になっていたりする。大事な本だからこそ節目に買いたいだとか、ネットの中古本は状態が心配だとかでずるずる引き延ばしてしまっていたが、2023年は節目の年だったし、ということでえいやっと全巻一気に買いそろえた。このシリーズが手元にあって、いつでも読み返せて、確認できるようになったというのは自分の中でとてもとても大きいことだ。

最初に読んだのは、記憶は曖昧だがおそらく小学3年生前後。学校図書館でタイトルと表紙に惹かれて手に取った記憶がある。当時は縄文だとか弥生だとかもよく分かっていなかったと思うので、そういった時代物的な感覚はあまりなく、単にファンタジーとして読んでいたはず。
倫理観の土台形成過程といった頃合いに直撃したこともあり、思想的にかなりの影響を受けた実感がある。読んでしばらくは、何を食べるにしても、水を飲むにも、コンロの火を付けたり戸口から出たりする日常動作のひとつひとつにも祈りと感謝を心の内で唱えたくなる。今回も、改めて読み返してそんな気持ちになっている。自分の中でものすごく深く刺さりこんでいるなぁと感じる。

印象深い教えはたくさんある。

例えば『天地のはざま』での交易参加者を決めるクジ引きの話。ポイシュマが、ムラ生まれではない自分とワカヒコがあたりを引いてしまったことについての申し訳なさをアテルイに相談するところ。

「では、たとえば、クジで外れたことが、その者への『旅に出てはいけない』という知らせだった場合はどうだ?」
(『天地のはざま』p.12)

物事には表があれば裏もあるのだから、一面だけ見ていてはいけない、という教えを諭すアテルイ
この考え方がかなりしっくりきていて、何か「運が悪いなぁ」と感じてしまうときには、逆に「あたっていたらよくなかったのかも」と思うようにしている。最近だと、『さやかに星はきらめき』の一般読者のゲラ読み募集に応募したのだけど抽選で漏れてしまっていた。でも実は当たっていたらちょうど日程的に司書の試験に影響がありそうだったので、むしろ外れたおかげで集中して取り組めということなんだろうなと切り替えた。結果落ちてるわけだけど、あそこでゲラ読みが当たって読んでしまっていたらそのことに落ちた原因をなすりつけたくなってしまっていたかもしれないし、あの本についての記事で書いたような読書体験には絶対なっていなかったと思う。はずれてよかった抽選の一つ。司書の試験で落ちてしまったことも、自分の性格的に薄々向いてないよなぁと思ってた節もあったので、「お前はなるべきではないよ」ということかなぁ、と受け止めたりもしている。

他にも沢山。よく知りもしないことを最初から悪い方向に考えてはいけないだとか、悪い想像を口にしてはいけないだとか。細かくあげたらきりがないくらいにたくさんある。

今回読み直していて特に感じたのは、根底を貫くような「知る、そして何が正しいか考えて、そうあろうと自ら決める」考え方だった。
この作品ではムラ対クニが描かれていて、一見ムラ側が圧倒的に正しいようにも見えるのだが、ムラの民も生まれながらに正しくあれるわけではない。それは『月神の統べる森で』で(後々振り返るように)最初から文句を言うような気持ちでヒメカに臨んでしまった長たち、『地の掟 月のまなざし』で災厄への恐れからポイシュマを拒否しようとしてしまったり恨みをヒメカの民にぶつけようとしてしまったムラ人たち、『天地のはざま』で恥をかかされたといってホムタをよってたかって足蹴にしてしまうポンヌペたち、アヤの実態を知らないまま知った気になっていたチェプモトたち、として描かれるだけでなく、成長していく過程のポイシュマも何度も間違うし、長の長アテルイさえも幼い頃に何度も過ちをおかしていたし、なんらなカムイのモナッレラすら、うぬぼれから罪を犯してしまう。

中でも特にアテルイだ。
アテルイは考え深い立派な長だが、持って生まれた素質はどちらかというと勇猛タイプ。幼い頃は親の言うことを聞かずに罠に落ちて大けがをしたり、自分の強さに驕ったり、その果てに自らの過ちで父親を死なせてしまったりする。この父を失ったときのエピソードが好き(『月冠の巫王』)。「おれは父を失ったが、ムラからは長を奪った」と気がつくところ。シクイルケが示した「償い」は父親の仇を討つことではなく、ムラから奪ってしまった思慮深い長の跡を継ぐことだった。アテルイは元々立派な男だったのではなく、自らそう在ろうとして謙虚に耳を傾け、知り、考えて選んでいる。
シクイルケを失ったときもそう。深い深い悲しみ、やるせなさ、無力感、ヒメカの民への恨み、憤り。それらの暗い感情は大いにあって、その中で三日三晩必死に考えて、飲み込んで、ムラの長として、シクイルケの願いを聞いた者として、自分が選ぶ道を選び抜いた。それもすぐに出来たわけではなくて、ポイシュマの悲しみもフォローしてやれなかったほどだけど。


記録を振り返る限りでの前回の読み直しは2018年だった。
高校生付近のころから大学生にかけては、私はこのシリーズを読む度に執拗にホムタのことを考えていた。タヂシヒコのようなラスボス級の非道にもなれず(タヂシヒコも実質的にはラスボスでもない気もするが)、かといってオシワたちほどの小物でもなく、オシホミたちほど柔軟でもなく、ワカヒコやヤタカやユツのようにムラに順応も出来なかった、どうしようもなかった男。
このプライドが高くてどうしようもなく自分を変えられなかった男に妙に執着してしまって、その理由を探る内に自分を重ねてしまったりしていた。実際、あの頃の私は「変わる」ことがものすごく怖かったから、変われなかったホムタをある意味同族として擁護してやりたかったんだと思う。当時書いたホムタについての感想文を見ると、必死にそれをつかもうとしていて懐かしかったし、いっそ可愛かった。
あの頃は本当に怖かった。何が怖かったんだろうと今となってはわからなくなってしまっていたりもするんだけど、例えば県内各地出身のクラスメートに囲まれていることで自分の訛りがわからなくなってしまったりしていたのがもうひどく怖かった。
今読み返してみると、ホムタはやっぱり気になるし、こいつは悪だと言い切るのにはモヤモヤするけど、以前ほどのどうしようもない執着は感じない自分がいた。ほかにもサザレヒコにも同族嫌悪だか今日完成周知だかの類いの感情を覚えて『裔を継ぐ者』に近づき難かった時期もあったのだけど、今はもうそれもなかった。その変化が少し嬉しい。
今の私は、もっと素直に「アテルイのようでありたい」と思えている。自分は駄目なところが多い人間だとわかっているけど、それは幼い頃のアテルイだって同じ。よく知って、よく考えて、自分の取るべき正しい道を見つけようともがくことは私もやってもいいじゃないか。やってみてやっぱりうまくいかないかもしれないけれど、やってみるだけはできる。

そんな「やり直し」を許してくれる物語でもある。時は戻らないから、過ちを無かったことにするような「やり直し」ではないけれど、過去の過ちを背負うからこそその次に何をするべきか、を考える。アテルイの父は戻らないが、アテルイはその分思慮深い立派な長であろうとする。モナッレラの驕りの罪はなくならないが、償いのつもりの子育てはいつしか本物の愛になり、ポイシュマもそれを正しくゆるす。ゆるしは時を超えて癒やす。二度もオオモノヌシの力を憤りにまかせて振るってしまったポイシュマも、最後には左手に自ら戒めの証を刻んで前を向く。

つい長々と感傷的に書いてしまった。
今回の読み返しでは色々とこれまでと違う読み方ができたなと思うので内容読解の面でも書きたいのだけど、この記事はさすがにごちゃつきすぎているので、時間があればまた別のエントリーにまとめたい。ホムタの描写がやっぱりすごいのだという話やキリスト的なシクイルケの話や物語の構成面での好みの話だとか、いろいろしたい。いつでもできる、だってもうこの本は私の手元にあるのだから。