つかのま。

読書と日々考えたこと

若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』/出口治朗『本の「使い方」』

いつからか、「趣味は読書です」と言えなくなった。
「本が好きだ」という感情は変わっていないはずなのに、一ヶ月に一冊も読めない日々が続いていた。
読書が趣味ですなんてとても言えなくて、そんな自分が一番嫌だった。

小中学生の頃はまさしく「本の虫」といった具合で、毎日のように図書館に通って本を読んでいた。年間で400冊くらいは読んでいたと思う。学校図書館でも市立図書館でも上限いっぱい本を借りて、時には背伸びして父の本棚から本を抜き取って、片っ端から読んでいた。朝、本を読むために5時半に起きたり、給食は5分で片付けて本を読んでいたり、授業中にもこっそり読んだり。歩きながら本を読むのは流石に危ないとわかっていたので、通学とはなんて不便な時間だろうと思いながら、かわりに様々な妄想を膨らませていた。毎年図書委員に立候補し続けて、図書館の本の配置をほぼ全部覚えていたのが自慢だった。

時も場所も選ばず本を読んでいたので、当然、周囲からの印象は「本が好きな子」だったと思う。私もそのラベリングが嬉しかったし、これだけは誰にも負けないとも思っていた。「本を読む」ことは、間違いなく私を規定するものになっていた。


でも、その「私」の柱を、私は自ら捨てていた。
捨て始めたのは多分、高校生の時だ。
高校の図書室は視聴覚室の一角にあって、狭く、長居がしづらい場所だった。蔵書量は文庫本を中心にするなどの工夫で頑張っていたのかなと思う(他の高校図書館や正確な蔵書量を知らないので比較は出来ない)。空間があまり好みではなかったというのもあるけれど、何より、高校生は忙しかった。授業時間は長くなったし、やらなければならない課題は増えたし、中学までとは違う地元の外の人間関係にもいっぱいいっぱいだった。だから片っ端から本を読むのを諦めて、「おもしろいとわかっているもの」だけを読む傾向が強まっていた。


大学生になるとさらに酷くなった。
当然なのだけど、大学図書館にある本は高校までの学校図書館や市立図書館にある本とは毛色が全然違う。どの分野の本も面白そうで入学当初こそワクワクしたが、結局のところ、レポートに使う本を読むぐらいしか出来なかった。親元を離れての生活、新しい人間関係、アルバイト、いろんなことに圧倒されているうちに読書を自ら切り捨ててしまっていた。それでも時々発作的に読みたくなって、長期休みに数日寝食も忘れて本を読み続けたりはした。


新卒で入社した会社は「学び」や「成長」を重視している会社で、「本を読む」ことを励行している雰囲気があった。ここなら私も、と淡い期待を持ったものだが、私はここでも躓いた。「読みなさい」と言われる本はビジネス書や自己啓発本が多かったが、私はそれらの本に、自分でも戸惑うくらいに拒否反応を示してしまった。「読みなさい」と言われた本を積んだ状態で他の本を読むと罪悪感がものすごく、余計に本が読めなくなった。


時は進んで、色々あって。今私は、「私」を取り戻そうと足掻いている。いつの間にか一番なりたくなかったはずの大人になっている自分が嫌で、今更だけど自分が本当になりたかった姿を掴み直そうとしている。
そのために絶対に欠かせない柱を振り返ると、それはやっぱり「本」であり「読書」だった。


表題の2冊を手に取ったのは、職場の中で読書を励行する運動が活発化しており、私がその運動を主導したいと手を挙げたからだ。『図書委員』の立場を、もう誰にも譲りたくなかった。私と同じようなモヤモヤを抱えている人が社内に他にいるかはわからないけれど、もしいたとしても苦しくならないような、読書を肯定できるような雰囲気を作りたかった。私自身の「読書」を救うためにも。ひとまずは「なぜ読書を励行するのか」を言語化するために、今回の2冊を図書館で見繕った。

■出口治朗『本の「使い方」』
著者自身がビジネス界の人ということもあり、「社会人」として本を読むこと、を整理するのによかった。
読書を「著者との対話」「著者の話に耳を傾ける」といった風に捉えていると感じた。
頭からお尻までじっくりしっかり読みなさい派。
新社会人に韓非子をおすすめしてるのが好き(高校時代に私も少しだけ読んだな~と懐かしくなった)。

若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』
こちらはどちらかというとロマン寄りの雰囲気もあり、やさしい語り口。
読書を「自分との対話」と捉えている。
通読することは絶対ではない。つまみ食い的でも良い派。
私のタイプの「本を読めなくなった人」とは少し違った。私の場合は元々この本に近い読み方をしていたが、一度捨ててしまったそれを取り戻していこうとしているところ。



どちらの本も「楽しみながら本を読む」「読みたいと感じた本を読む」のがよい、と言ってくれているのが救われた。私がビジネス書や自己啓発本に拒否反応を示したのは、何より「読みなさい」と言われる(しかも感想や「学び」を「アウトプット」することを目上の立場から求められる)のが苦しかったのだ、と理解した。自分にとって「今」のタイミングではきっと無かったのだ。別の機会になれば読めるようになるかも知れないと思うと少し楽になった。

本の勧め方についても、どちらの本も「この本が良い」と無条件に推薦するのを是とせず、相手の読書状況や好みなどをしっかりするのが重要だという論調なのもしっくりきた。実際、本の虫時代にも質問されても困っていたなぁ、と思い出した。私の好きな本は相手に勧めるべき本とは違うので。

読書の対話方向は、どちらでもあるのだと思う。本による、ジャンルによるのかもしれない。その時々でも色々あると思う。今回の2冊のような、著者の考えを述べるのが主軸の本であれば、やはり「著者」を意識する必要があるのではないか。「これは世界の真理なのではなくて、あくまでこの著者が考えたことである」と線を引いておかないと飲み込まれてしまいそうだから。小説や詩を読むときに著者を意識しすぎるのは、ちょっと野暮だなと感じる(切り離すことはできないけれど)。

『本を読めなくなった人のための読書論』では、「ひとり」の時間が大切なのだといっている。
私が今回このブログを開設したのも、適度なつながりの距離感を模索し直したいからだ。Twitter(X)では近すぎる、脳直すぎる。もう少しだけ離れておいて、かといって離れすぎないところにいたくて、ブログに回帰してみた。

まだまだ模索中ですが、また自信を持って「趣味は読書です」と言えるように、柱を一本ずつ立てていきたい。