つかのま。

読書と日々考えたこと

<理想郷>を諦めないこと

今日、アメリカがベネズエラに対して軍事行動を起こしたそうだ。
他の様々な国際情勢や国内の雰囲気も重なって、あぁ世界はどこへゆくのだろう、と暗い気持ちになりながら買い物をしに外に出たら、今年最初の満月が、大きく明るく東の空に昇っていた。

その月を見ていたら、ここ最近、児童書を読み返す中で感じていた気持ちを思いだして、このブログを書いておこうと思った。


ミヒャエル・エンデは、度々『理想郷(ユートピア)』について語っている。人が生きていくためには、「ポジティブなユートピア」が必要なのだと(今手元にないので確かめられないが、『オリーブの森で語り合う』が一番詳しいはず)。エンデは現代文明批判的に紹介されることも多いが、「わたしは懐古主義者ではない」と本人が言うように(この出典は今とっさには思い出せない…)、あくまで見据える先は未来で、「まだ現実にはないユートピア」を描くためにファンタジーがもつ力を述べている。

その出力の一つの形が、『はてしない物語』だと私は思っている。あの物語はまさしく、現実で希望を持てなくなってしまった子供が、ファンタージエンへの冒険≓読書を通じて、自らが本当に望むことを見つけ、現実を生きていく力を持ち帰るお話だ。ほかにも、『鏡のなかの鏡』の「手に手をとって、ふたりが道を」や、『自由の牢獄』の「道しるべの伝説」あたりも、同じように「理想郷を忘れるな、諦めるな」と語りかけてくる物語のように思う。

未来はお先真っ暗だ、とどん詰まりになって諦めてしまったら、そこで本当に終わりなのだと思う。それと同時に、どんなに居心地が良くてもファンタージエンに永く居座ることはできない。私たちはファンタジーを通じて理想郷を夢見ることができるようになったら、それを忘れないままで現実を生きてゆかなければ、どこへもたどり着けない。まだ実在しない理想郷ははてしなく遠く、永遠にたどり着くことはないのかも知れないが、諦めてしまえば絶対そこにはたどり着けなくなってしまう。たとえ「彼方の世界の住人になる長子権」を持っていたとしても。

エンデ作品に感じるこの「理想郷を忘れるな」というメッセージとファンタジーの力と同じようなものを、私は最近読み返している児童書から感じている。

直近で読み返しているたつみや章作品・村山早紀作品は、どちらも全編都合がいいわけではない。現実は必ずしもやさしくないし、世界には問題が山積みで、汚いことも暗いこともあって、人間もとても弱かったりもする。それでも、作中には確かに優しさや善い人たちがいて、それは決して無駄ではないのだと描かれる。だからもう少し、人間を諦めないでいてみようと、物語を読み終わったあとには少しだけでも未来を見たくなる気持ちになれる。理想郷を諦めないでいてみようと思える。

周りの人間や世界だけではなくて、自分自身の中にある醜さ弱さのせいで彼方の世界の長子権を諦めてしまいそうになることもある。そのときの答えも、私は物語の中に見いだすことができる。
エンデのファンタジーでは善も悪も全部まとめて、そこに在るものと認めてくれるような心地がする。ヒエロニムスが「故郷」の門をくぐるのに資格など問う必要はなかったように。
たつみや章作品・村山早紀作品では、「これから変わればいいのだ」と背中を押してもらえる気持ちになる。ポイシュマが左手に握りこんだ戒めのしるしのように、過去を悔いる老ハッサンやサウードが、それぞれ自らに言い聞かせるように「正義の科学者」「正義の魔法使い」と名乗るように。

大人になった今読むと、どうしても作品のうしろに作者の姿を見ることがあるけれど、それがより一層、人間を諦めないでいられる理由にもなっている。だって、物語の登場人物たちは現実にはいないかもしれなくても、こんな物語を子供たちに宛てて書いた作者たちは確かに実在するのだから。子供たちに未来を諦めないでと祈ってくれる大人が、この世界には確かに存在するのだと思えば、私もそちら側に立ちたいと思えるから。


<理想郷>を諦めないでいよう。ほんのちっぽけなことでも、足下から始めてみよう。少なくとも自分のことは諦めないでいよう。忙しさにかまけて体調の悪そうなおじいさんを素通りしたとき、私の心は少し錆びて、素通りする人々の中で白状を掲げ持つ人に自分から声をかけることができたとき、私の心は少しだけ豊かになった。自分を諦めないでいよう、それを通じて、人間を諦めないでいよう。