つかのま。

読書と日々考えたこと

村山早紀『新シェーラ姫の冒険』(愛蔵版)

夜中に『シェーラ姫の冒険』を読み終わって、今朝ブログを書いたばかりだけど、今読まないと読めない気がして『新シェーラ姫の冒険』まで一気に読んでしまった。

『新シェーラ』は前作に比べると読み返し回数が少ない。私が読み始めた時点で前作は完結済みだったが、新シェーラは私が小学生の間にリアルタイムで刊行されていったのだった。だから一気読みというのがあまりできず、一気読みしたのはもしかしたらこれで2度目くらいなのかもしれない。

『新シェーラ』は愛蔵版でもテンポ的に問題ないというか、むしろこうやって一気にがっつり読むのがあっているように思った。前作に比べると一巻一巻の区切りが弱めだからというのもあるのかな。前作の特にガラスの子馬までは一巻でひとつの宝石をめぐるお話があってそこでいったん一段落して、という流れだけど、新の方は「サウードおじさまを探す」という旅の目標はなかなか満たされず、かなりフレーズの息が長い感じ。逆にフォア文庫版を刊行追いながら一冊ずつ読んでいた時は、細切れに読んでいたせいで話のつながりがよくわからなくなってしまっていたのかもしれない。

一冊ずつ読んでいたときには実はあまりよくわからないな…と思いながら読んでしまっていたりしたのだけど、今回シェーラ→新シェーラと全20巻分を一気に読んで、今更このお話がわかった気がする。

新シェーラは前作よりも少しだけ年上の子向け、まさしく「シェーラ姫の冒険を読み切った、その先で読む本」なのかな、と。

前作のシェーラに比べると、主人公はぐっと身近な子供たちになる。母にそっくりなルビーだって、象すら持ち上げるお母さまに比べたらちょっと力の強い程度の女の子だ。そしてそんなルビーがひとり主人公な訳ではなく、それぞれの父や母に似ていながらもそれぞれのコンプレックスを抱えているサファイヤ、ハッサン、ジュドル。さらには「シェーラ姫の冒険」の伝説に憧れを抱きながらも自分はそのような存在にはなれないと諦めてしまうナルダやミシェール

彼ら彼女らは私たち読者だ。まさしく『シェーラ姫の冒険』を読んでわくわく憧れていた私たち。でも少し大きくなって現実を見れば、自分はシェーラ姫にはなれないと諦めそうになってしまう私たち。かっこいいお姫様でも賢い魔法使いでも勇敢な王子様でもない、自分は何者で、どうやって生きていけばいいのかわからない私たち。

冒険を通して、子供たちは確かに少し変わっていくが、ジュドルが「思ったよりは成長していない」と明るく語るところが印象的だった。新たな力をつけたのでもなくて、劇的に変わったわけでもなくて、でもそんなのに関わらず自分が大事にしたいものを見つけて、この世界で生きていたいと前向きに生きていく。過去の過ちは過去のもの。でも願えば未来の自分は変えられる。これは最初のひとりで抱え込んでいたファリードを仲間たちが誰も責めないところも印象的だったな。

全体的に、一つ一つのエピソードのドラマチックさも前作の方が大きいけれど、そのかわり、新ではもっと平凡で、身近な幸せや優しさを見つめるようなお話が多い。ありふれているように思えるそれが、誰かの思いの上に成り立っているのだということ。

世界を救う姫君の役目はサファイヤが担ったけれど、作中でも言われるように、「地上に生きる人間は、みんな主人公」なのだと物語は締められる。言ってしまえばありきたりのメッセージなのかもしれないけど、前作も踏まえてここまで積み重ねてきたエピソードの重みで、すとんと落ちて、じわっときいてくる結論になっている。世界を救ったお姫様の冒険譚の続編として、物語の外の現実で生きていくことになる子供たちへの贈り物として、このお話は書かれたのだなぁと思った。いっしょに生きていきましょう、この世界で。

それはそうと究極の執事セバスチャンが一体何者だったのかが気になってしょうがないのですが、むしろあんなに何でもできる究極の存在が脇役でぽろっと出て転がっているあたりも、「誰もが主人公なのよ」というメッセージを補強してくれているのだと思った。セバスチャンにはきっとセバスチャンの究極の物語があるのだろうけど、それはまた別の物語、別の時に話すことにしよう。ということかなと。