つかのま。

読書と日々考えたこと

新藤悦子『青いチューリップ』

先日、あやふや記憶から探していた本。

レイマン1世の頃のオスマン帝国イスタンブールをメインの舞台に描かれる時代もの的な児童書。主要登場人物はほとんどオリジナルキャラだが、一部でフッレム妃(ロクセラーナ)や絵師頭シャー・クルなど歴史に名を残す人物も登場する。

図書館に蔵書があったので借りてきた。

はじめて読んだのは中学生の頃、学校図書館で。ディテールは覚えてなかったけど、「イスラム教徒は人の絵を描いてはいけない」みたいな話を強烈に覚えていた。

改めて読んでみると、当時はどこまで何をわかって読んでいたんだろう…?と思うほど読後感がかなり違っていた。流石に当時よりは世界史やイスラームに関する知識が多少増えているので、"物語の世界"的に捉えていたのが"この世界"の話として捉えられるようになったのかもしれない。

主人公はネフィの方、という記憶だったのだけど、今読むとむしろラーレの方がより印象に残った。絵を描くことが大好きなのに、「女だから」「イスラム教徒だから」絵師にはなれないし、思うままに描くことも許されないラーレ。ネフィと違って一人では街へ行くことも許されないし、結婚後外に出ず家で絵を描くだけでも"夫の許し"が必要な世界の女の子。

それでもラーレはあの世界の女の子たちの中では比較的"恵まれている"方だったりする。父親は名声あるアーデム教授で、母方の祖父は宮廷の絵師頭シャー・クル。家は裕福で衣食住には困らないし、優しいセマばあやまでいて、絵だって描ける。家の中にいる限りはなんの心配もいらないような境遇だ。そんなラーレは、青いチューリップにまつわる騒動をきっかけに安全な家を追い出され、都を追い出され、キャラバンからはぐれ、カジェたちの「女の洞窟」にたどり着く。

男の子の格好でなら宮廷の絵師工房にだって入れるし、キャラバンと一緒に旅もできる。「男の子」としての自由を体感したラーレにつきつけられる月経の場面が特に印象的だった。いよいよ「自分は女だ」と突きつけられ、カジェからの「おめでとう」の言葉に混乱するシーン。

「子どもを産むためだけに、生きてるみたいね。女になんて、生まれてこなければよかった。」
(p.226)

このどん底のセリフから、シャフメーランに乗る少女たちの絵を描くこと・カジェの結婚事件を通じて、ラーレは"現実"とむきあっていく。「女」の現実。写実的な絵がかけない世界。そもそも"ありのまま"とは何なのか。アイラが引きちぎった「幻の青いラーレ」の物語や旅の中で描かれるオスマンの国情とも絡み合い、「幻の花ばかり追って、目の前の花が見えなくなる」というテーマが展開される。そのテーマの展開を受けても青いラーレの球根を火に投げ入れる瞬間のネフィの表情も印象的だった。それは咲かせてはいけない幻の花だったかもしれないが、その花を実現するためのネフィの努力は幻ではない。

地中海学会月報にあった著者コメントを読んでも、やはりこのお話は「女の子」のお話だったのだなぁと今更思うなどした。

1巻は新年の祭りで終わる。巻末の歴史ダイジェストの書き方的に、もともとは続編の予定はなく、ここで完結だったのかなと思う。

2巻はラーレとネフィ・メフメットの結婚をめぐる話と、ネフィとラーレそれぞれの夢への再出発が描かれる。

2巻で印象的なのはメフメットだった。メフメットはラーレに「女は絵師の苦労なんて知らなくていい」なんてことをいう。かなりショックなセリフだが、その背景にはかつてキリスト教徒の村から奴隷として連れ出されて改宗し、写実画を一切描かなくなったメフメットの経歴もある。文様しか描かないはずなのに、そらでマリアが描けるメフメット。これはペルシア時代は肖像画を描いていたのにいまは文様しか描かないと決めているシャー・クルもそう。自由なように見える「男」の絵師の世界にもまだ抑圧はある。実際に「女絵師」としてハレムに出入りして絵師の世界に足を踏み入れたラーレも、ハレムの少女たちとのやりとりを通じて、一見華やかな世界にある檻や鎖を知り、改めて「本当に描きたいもの」を突き詰めていく。

物語としては歴史的な要素が絡みだしてとてもおもしろくなってきたところで終わってしまう。続きが見たい気持ちはあるが、歴史に照らし合わせると、このあとムスタファ皇子はスルタンにならないはずだし、アラビア文字の印刷ももっとあとになるようだし、いったいどういう展開があり得るんだろうか…?と考えると思いつかないところがある。このあとラーレとネフィはどうなっていくんだろう。