どこかで同じような内容を書いたような気がするけど、このブログではないようなので書いておく。ふと書きたくなったので。
この記事と近いものではあるかも。
tsukanoma.hatenablog.jp
私はいろんな言語の学習と、いろんな楽器で音を出して遊ぶのが好きで、あれこれと手を出している。言語も楽器も、「これなら出来ます」と自信を持って言えるだけのものはない。
時々、その中途半端さが自分で嫌になることがある。とくに他の人がとがった強みを発揮しているのをみた時には。ジェネラリスト志向ですと言えれば聞こえは良いのだろうけど、実際のところ個々のレベルはそれぞれ「入門」レベルは一通りしました、程度のものがほとんどなので、ただひたすら何もかも中途半端なだけだ。
嫌気がさすならそんな自分を辞めてみて、何かしっかりやってみればいいと思うのだけど、これがなかなか上手くいかない。ゲームをやり始めたら2,3ヶ月ずっとゲームをしていたり、中国語の勉強を始めたら3ヶ月くらいでHSKをとってみたり、英語多読も半年で100万語やってみたり、気合いを入れて働きながら公務員試験やら司書過程やら放送大学やったりしてみたり。一度スイッチが入るとむしろしばらくの間それしか手がつかなくなるタチではあるのだけど、その期間も2,3ヶ月くらいしかもたない。飽きてくるというよりは「そろそろあれもやりたいな」とか思いついてしまってやりたいことが増えてしまってどうにもならなくなる感じ。だからもっとあれもやりたいこれもやりたいを常に沢山抱えてて、でも何をやるにも体力と気力が足りなくて結局べしゃっと潰れていることが多い。私は本当は全部全部出来るようになりたい。
そもそも、なんでこんなに色々やりたいんだろう?と考えると、有り体に言ってしまえばとっくに大人の未だに「何者かになりたい」の延長線なわけだけど、表題の「声を探している」というのが自分の中ではしっくりきている。特に言語、音楽、文章なんかの、"表現”に関することを追い求めているとき。
私は喋るのが全く得意ではない。早口なのに舌が回らず、頭の回転も間に合わず、語彙も足りず、声のコントロールも上手く出来ず。喋っているときの私は「私」じゃないという感覚がずっとある。
書き言葉は立ち止まって書けるから多少マシで、こっちの方がよっぽど「私」の「声」だと思っている。だからTwitterが好きだったのかも。
でも本当はもっとカッコよくていい文章を書けるように落ち着いて推敲してキチンと書きたいのに、衝動のままにこうやってドカドカ書いてしまう。書き終わった後に見直しをしようとするとなんだか違う気がして全部消したくなってしまう。私は“ちゃんと”したいのに、コントロールがきかない感じ。
この、「コントロールがきかない感じ」は楽器をやっているときにもものすごく感じる。私が出したいのはこんな音じゃないのに、こんなに指が回らないはずもないのに、いろいろ。身体を上手く使えていない感覚があって、これは歌を歌っているときや運動をしているときもそう。話し言葉のコントロール出来なさと似ている。身体の問題でもある。話はそれるけど身体論もちゃんと向き合っておきたい領域の一つ。
楽器をやっていると、コントロールできるようにするためにはベースの体力・筋力をつけることと、とにかく基礎をしっかりやって技量をつけるしかないのかな、と感じる。これは運動もそう。それはわかっているのだけど、もしかしたらもっとすんなり、しっくりくる「声」があるのかも、と思って、いろんな言語や楽器に手を出してしまうんだと思う。でも実際、言語をやっているとめちゃくちゃ"相性"ってあるよな、と感じる瞬間もあり、ドイツ語では何年やってもたどり着けなかったレベルに中国語だと雑に数ヶ月で到達できてしまったりすると、「何を頑張るか」で全然「声」を手に入れるための労力って変わってくるじゃんと思ってしまう。
それでも、「これならどんなにキツくて辛くても頑張りたい」と思えるだけのパッションを抱けるだけのものがあれば話は違うかも知れない。だから"それ"を探して、余計にあれこれ手を出してしまう。そして中途半端になる。ずぅっとこれを繰り返している。
ただ、ここ数年で自分に対する理解はある程度深まっているので進歩がないわけではない。私は「声」がほしいんだ、と気づけたこともそうだし、2,3ヶ月程度ならがーっと集中してやれることも自覚したし、真剣に本気でやってもいいんだと思えるようになったし。「やりたいこと」を一つずつ、2,3ヶ月ずつでも真剣にやっていけば、少しはマシな何かになれるのかも。しばらくはそういうスタンスでやってみようと思う。
ちなみに、こういう文章を書くときのBGMには手嶌葵があう。この記事も聞きながら書いた。